2017年5月29日 (月)

まあ、暑くなってきたね

この週末に、読んだ本の感想からいこうかな。

まずは 、猪瀬直樹 『ミカドの肖像』(猪瀬直樹著作集5 2002年5月 小学館)

もとは小学館「週刊ポスト」に1985年1月から翌年の8月1日号まで連載された記事だ。まだ時代は昭和で、世の中はバブル経済前夜。世界ではいろんなことが起きてるけど、日本はまだまだノンビリしていたころのものだ。で、この週末に読んだのは、そのうちの第一部のところ。主題は、西武鉄道グループとは何であり、何故その経営するホテルグループが、あの菊のマークを持つ「プリンスホテル」という名称なのか、という話題。

この本は当時まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの西武鉄道グループの始まりを論じ、多くの人に読まれたものだと思う。僕は気になっていたけど読んでいなかった。「週刊ポスト」って「週刊現代」とならぶ「おっさん雑誌」(ゴメンなちゃい)だとおもっていたし、連載していた頃は、そのすぐあとに昭和が終わっちゃうなんて全然予期していなかった。

それはともかく、今このブログの流れから考えると、この30年前の著作がずいぶんと面白く、また役に立つ。まずは「軽井沢論」として。軽井沢が現在のようなブランド価値を確立するまでの一端が、『ミカドの肖像』第一部から、実によくわかるからだ。それに猪瀬の書きっぷりは、「週刊ポスト」の一般読者を想定しながらも、質を落とすことなく、さまざまなアクチュアルな当事者たちへの取材を素材として、実にいろいろな事実が話題になっていて面白い。

それからもうひとつ。軽井沢というブランドがどう打ち立てられたかとは別に、そのブランドの消費者論というものが含まれていることだ。消費者とは、「ミドルクラス」の都市の大衆であり、そのような消費者があらわれることと、軽井沢の発展とは同じ事柄の両面をあらわしている。

猪瀬氏の狙い通り、「ミカド」という「空虚な中心」を媒介にしてひとびとの願望や欲求がその周りをめぐり、ホテルができ、「軽井沢」というブランドができ、昭和の大衆消費社会が回っていく、複雑な出来事の糸のより合わさっていく様子の一部が、実にくっきりと叙述されている。
ぼくもまた昭和時代の人間として、「美智子様ご成婚」をテレビで見た人間として、またはからずも「旧赤プリ」の木造洋館で挙式・披露宴をしたらしい記憶のある人間として、「ナルホド、ガッテン!」印をいくつもあげたくなる内容である。


事実関係の記述はこのブログの求めるところではないし、猪瀬氏の取材が明らかにした内容は多かれ少なかれウィキなどの記述にも反映されているので、内容の紹介はだれかに任す。

感想をいくつか書いておく。まず第一にプリンスというブランドを作り出した、堤 康次郎 1889-1964 という人間のとてつもないエネルギーにびっくりする。

滋賀県出身の若造が、早稲田大学卒業の2年後に、すでに現在の中軽エリア、千ヶ滝地区を中心とする広大な土地を手に入れ、別荘地として売り出そうと活動をはじめたのである(大正4年)。
碓氷峠の新国道開通は明治17年(1884)、横川-軽井沢間の信越本線がアプト式鉄道として開通したのが明治26年(1893)。アレクサンダー・クロフト・ショーが軽井沢に最初の別荘を持ったのが明治21年(1888)。軽井沢は外国人の別荘地として発展を見せ始めていた。いっぽう中軽井沢(沓掛)は草津温泉へむかう客の中継地となるものの、草軽軽便鉄道の一部開通が大正6年(1917)に迫っていた。村の将来を慮る東長倉村村長、沓掛(現在の中軽井沢)在住の土屋三郎は3年かけて村民を説得し、ついに大正6年12月、村民の意見がまとまった。大正7年から本格的に別荘地の開発が始まった。

いっぽう康次郎は、大正8年からは箱根強羅の土地を買い、開発をはじめる。9年箱根遊覧船会社設立。10年湯の花沢買収。万座開発にも着手。11年目白文化村分譲。12年駿豆鉄道。軽井沢グリーンホテル開業。渋谷百軒店開発。大震災後は、池田山、島津山、西郷山、徳川山などの分譲に着手。13年には衆議院議員に当選。大泉学園都市開発着手。小平学園都市開発着手。15年国立駅建設、一橋大学誘致。学園都市建設・・・というふうに矢継ぎ早に事業を展開させてゆく。

ちなみに康次郎が最初に手に入れたのは現在の国道141周辺である。千ヶ滝西地区の付近は元来は雨宮敬次郎が開発した場所である大正11年に雨宮から土地を提供されてそこに朝香宮家が別荘を立てた。康次郎は雨宮敬次郎から後に一帯の土地を手に入れた。そして朝香宮の別荘を堤が手に入れたのは戦後の昭和22年のことである。朝香宮別荘は占領軍の施設として提供され、次いで皇室専用の施設として稼働することになったそうだ。

ちなみに雨宮敬次郎はもともと生糸の貿易商であり、アメリカで見聞した開墾事業に想を得て、旧軽井沢地区を開発し、あわせてカラマツの植林によって、今日の軽井沢の景観の基を築いた人物である。

第二次大戦後に康次郎は、皇籍を離脱した都内の旧宮家の土地を買収することに力を注ぎ、後にそこにプリンスホテルを建設することになる。皇族や華族の土地を買い集めて、再開発する手法は戦前からのものといえるだろう。その辺のブランド価値の利用を康次郎がどのように考えていたのかは、この本では特に書いてない。

軽井沢に皇族が滞在することのプラス効果はすぐに表れた。昭和34年の「皇太子御成婚」だ。
軽井沢=高原=テニスコート=避暑地の恋=身分を超えたもの=戦後民主主義の価値観、こういう連想項目と、高度成長のもたらす大衆的な余暇時代の到来とが相まって、軽井沢というブランド価値がほとんど「神話的」次元にまで高まっていくことになるのだろう。

というわけで、まずは『ミカドの肖像』という本の第一部が、このところ問題にしてきた「軽井沢論」のど真ん中にはいる第一級の基礎資料のひとつになることとなったわけだ。

他の本のことも書こうと思ったけど、今日は十分に長くなった。歯が痛いので、歯医者に予約入れようと思ってたのに、これ書いてて忘れちゃった。
前回のアウトサイダーアートに関する話ではないが、「ブログを更新しようとする僕の欲求はとても止めることができなかった。それはやむにやまれぬものであった」みたいなことになっちゃいそうだな。じゃ、良い子のみんなは、こんなことにならないように気をつけてね。

2017年5月26日 (金)

ヴェルフリ展のあと(前回の続き)

前回の最初のところで見ておいたように、アウトサイダーアートというのは英訳の際に造られた言葉で、もとはフランス語の アールブリュットart brut だってことだったね。そしてそれは20世紀の始め頃に起こった絵画の革新運動のひとつであるということ。

その後今日に至るまでの100年の間に絵画とかアートをめぐる状況は大きく変わった。先般亡くなったアメリカの哲学者、 アーサー・C・ダントーはウォーホールをはじめポップアートを取り上げながら、ルネッサンスから始まりヨーロッパのアートワールドを作り上げてきた大きな歴史的境界線が踏み越えられてきたことを論じていたように思う。簡単に言っちゃうと、いまや「これがアートだ!」と言えば何でもアートだという世の中になったっていうこと。そういう意味でいくと「アウトサイダーアート」という言葉は、歴史的には意味があるけど、ソトとウチの区別が曖昧になった現在のアートワールドから考えると自己矛盾をおこすことにもなりかねないね。

まあ、いろいろむずかしい議論をするつもりはないんだけど、パラレルヴィジョンの図録のなかのシュヴァルの「理想宮」の写真をみていて、僕としては日本の仏教美術に関連してイメージが湧いたんで、そのことを書こうとしている。


長野県上田市の西の方角に修那羅峠(読みはショナラまたはシュナラだと思う)って場所があるんだけど、人里を離れた峠の傍らにある神社、安宮神社の境内に、石仏がたくさん祀られている。案内によると、石神、石仏、木造仏あわせて1128社が末社として境内に祀られているそうだ。今となっては風化して細かい造形の定かでないものも多数あり、どれをとってもプロの石工や仏師によらない素朴で特異な表現の像である。
訪う人も稀なひっそりとした山の中に多数の石仏が並んでいるのをみると、ちょっとびっくりする。その一方で、こういう「マッス」をうみだす情熱のみたいなものが、どこから来たのか気になりもする。僕がそこを訪れたのは10年くらい前なんだけど、なんか心のどこかにその謎めいた雰囲気がひっかかっていた。今回、ヴェルフリの展覧会について書こうとして急につぎのようなアイデアのイメージが浮かんだのよ。
つまり、
「仏師や石工を仏像の造立のインサイダーだとすると、こうした素朴な仏像は、まさに「アウトサイダー」の作品じゃないか! これこそ日本流アウトサイダーアートだあ!」、とか。

ところで今、神社のある長野県筑北村の案内HPを見たら、これは一人の作者によるものではなく、信者の人が奉納したものなんだってね。今日このブログを書きはじめるまでは、なんとなく仏像の作者は一人なのかな、と思っていたので、シュヴァルのようなアールブリュットの作家たちと同じように、とどめることのできない個人の情熱が生み出したものだと思って、イメージが湧いたんだけど、どうもそうじゃないらしい。残念!

よく考えてみると、一人の作家によるものではない、自然発生的で大勢が作るこういう素朴な表現の集積は、神社仏閣、宗教施設にけっこうみられるのかもしれないね。化野念仏寺の水子供養とか、京都伏見稲荷の奉納鳥居とか、伊勢朝熊山の碑とか、神社の奉納額とか。

マルセイユの港を見下ろす聖母教会にも、船乗りが海での安全や守護を祈念する奉納額が沢山あったもんなあ。
信仰に関連する素朴な表現、僕はけっこう好きですね。

というわけで、今日はこれまで。あまり中身がないブログになってしまってゴメンなチャイ!


2017年5月24日 (水)

展覧会 アドルフ・ヴェルフリ:二萬五千頁の王国

アウトサイダーアートに最初に触れたのはいつだったか、と思って自宅の本棚で展覧会の図録を探してみた。すると、世田谷美術館で開催された Parallel Visions というタイトルの展覧会の図録が出てきた。おそらくこれが、本格的にこのジャンルの存在を意識した最初の時なんだと思う。図録には1993年10月の発行日が記されているから、もういまから四半世紀近く前のことになる。その時展示されていた作品の中ではヘンリー・ダーガーのものが圧倒的な印象を残した。一方今回の展覧会の アドルフ・ヴェルフリについては、なんかたいして記憶にはとどまっていなかった。それでも今回、東京=中日新聞の記事でヴェルフリの名前を聞いて、これは見ないわけにはいかないな、と思ったのだった。

展覧会のチラシによると、今回はアドルフ・ヴェルフリ1864-1930 の日本における初めての大規模な個展だそうだ。
(以下、チラシ引用)
スイスのベルン近郊に生まれ、孤独で悲惨な幼少期を送ったヴェルフリが絵を書き始めたのは、罪を犯し、精神科病院に収容されて数年後の35歳のとき。以後、病室で一心不乱に描き続け、生涯に描いた数は25,000ページ。余白を残さず絵と文字と音符で埋め尽くされた作品はどれも、既存の芸術や美術教育の影響を受けることなく生み出された他に類をみない表現力と奇想天外な物語性、そして音楽への情熱にあふれています。自分の不幸な生い立ちを魅惑的な冒険記に書き換え、理想の王国を築いて世界征服をたくらみ、音楽監督として作曲に没頭した・・・。ヴェルフリの初期から晩年までの74点を厳選した本展は、アールブリュットの源流をたどる待望の機会です。・・・

アールブリュットはフランス語の art brut 。ウィキペディアのアウトサイダーアートの項目には丁寧な解説がある。まとめると、次のようになる。アウトサイダーアートとは、西洋の芸術の伝統的な訓練を受けていない人が製作した作品のうちアートとして扱われているものをさす。フランスの Jean Dubuffet 1901-85が がその命名者である。彼は西洋美術の伝統的な技法だけでなく、そもそも西洋文明の基本的な価値観に対して否定的であり、自身はアンフォルメルの運動に先駆的な役割を演じたアーティストである。彼は既存の芸術の概念からはずれたところにあった子供や精神障害者などによる絵画を 、アールブリュットと呼び、その価値を発見するように呼びかけたのである。そのフランス語が英訳されて outsider art となった。
なにか、アウトサイダーというと、日本語の語感としては常識を外れたみたいな風に受け取る人もいるかもしれないが、そういう意味ではなく、業界内部に固まってしまう固定的な美意識に対する批判を通じて、ポジティブなものを見出そうとする意味が込められているのだ。

そんな意味で、このジャンルのアートは今もなお、ある種の既成概念に対するチャレンジ的なものが保存されているように思える。その辺のプープーちゃんが、「まー印象派の絵ってキレイ!」みたいに直接的にはいかない面があることはまちがいない。つまり、このジャンルは全くもって20世紀的なものであって、ブラックとかデュシャンをみるのと同じような、あるいはヨゼフ・ボイスを体験するような、ちょっとした心の準備が必要なのだ。
ま、そうはいうものの、ヴェルフリの場合は作品はあくまで「平面絵画」なのだから、そこまでむずかしく考える必要はないし、むしろ art brut って位なんだから「ナマ」なままに、その「生地」というか「素材感」を直接味わうのもいいのではないかと思う。

というわけで、ここからがやっと本題ということかな。

展示に用意されていたシートには、ヴェルフリが多用する典型的なシンボルみたいなものが、「形態語彙」という風に例示してある。「眼鏡のモチーフ」とか「自画像」、「目のある小鳥」などのモチーフが繰り返し用いられている。「ホプティクヴァックス」や「蒸気プロペラリング」なんてのもある。こうした装飾性、シンボル性のあるフォルムが平面上で隙間なく組み合わされるのが一つの特徴でもある。その他楽譜とか文字がモチーフ同様に空間を埋め尽くすように画面の中に描き込まれている場合もある。それらの物語性のある絵は、劇場の描写とともにあり、あたかも作者の考える「物語」が、いままさにその画面に描き込まれた劇場で音楽とセリフとともに上演されているがごとくなのでもある。
また、晩年の葬送行進曲シリーズでは、コラージュが多用され、面白い効果を発揮している。

また、展示室に置かれたモニターの映像は、これら多数の作品が実はバラバラの状態ではなく、いわば書物のように綴られていることを示していた。一枚一枚のシートとしては、空間が様式的に埋め尽くされたており、さらにそれらのシートが数10ページくらいの書物の形にまとめられている。おそらくは一枚のシートが様々な記号によって埋め尽くされ、非常に密な状態になっているのだが、それらのシートが綴り合わされてある種の物語性のある「本」になり、初めてヴェルフリの表出が完成するのだろう。
前にあげたヘンリー・ダーガーの場合は、資質が全く異なり、画面がシンボルなどで埋め尽くされることはないのだが、その一方で、ダーガーの作品世界はひとつの王国の秩序をめぐる巨大な物語として構成されているという点で、何か一連の作品を通じて物語性のある作品世界を構成しようとする意志という点では共通するものがあるようにも思える。
ヴェルフリは生涯を通じて2万5千ページほどの作品を残したとのことだ。また、病院では希望する人に作品を与え、代わりになにか物資をもらうということもしていたようだから、そうした流出した作品も加えると作品のページ数はもっと多いのかもしれない。


アウトサイダーアート全般にいえることかどうかわからないが、作品が充溢して空間を埋め尽くすことはしばしば見られるようだ。(もちろん全部が全部そうじゃないことは自明) ひとつの形態素が自然増殖していくように作品化されるケースというのが結構あるように思える。

パラレルヴィジョンの図録を見ていくと、Madge Gill 1882-1961 , Johann Knupfer 1866-1910, J.B. Murry 1908-1988, Martin Ramirez 1885-1960 の絵画にそんな感じが見受けられる。
また、Simon Rodia 1879-1965, Clarence Schmidt 1897-1978, Ferdinand Cheval 1836-1924 の構築物にも 同様な手法、つまりモチーフの反復と組み合わせから複雑な構築物を形成しているようにも見て取れる。しかもこれらの構築物の素材という点でも、あえて手に入りやすい素材を少しずつ反復使用することによって、巨大な構築を手作り的に形成するのだ。

インサイダーである世界的な作家、草間彌生の作品では、ほとんど強迫的といっていいくらいに同じモチーフを反復する手法が見られることは知られる通りであり、アート作品における反復というのは、ひとつの批評圏を構成できるのかもしれない。しかし、今のぼくにとって、興味深いのは、単なる方法的反復ということではない。そもそもアールブリュットにおける反復は、「意図的」「構成的」反復ではなくて、作品世界を作ろうとするエネルギーの過剰が結果として生み出す反復みたいなものだと思っている。そしてそのようないわばエネルギーの過剰こそがアールブリュットの本質なのではないか、とも思ったりする。

自己を含む物語の構築と作品の関係というと、哲学者 ゼーレン・キルケゴールのケースが思い浮かぶ。すでにこのブログでもなんども引用しているように、キルケゴールの著作への意欲はやむにやまれぬものだったのであり、その書きものの中で、かれは情熱にとりつかれた人物になったり、あるいは堅実な倫理的人間であったりする。繰り返すが、そのような物語を書き綴りたいという希望は、やむにやまれぬものだった、と本人が語っているのだ。
さて再びアールブリュットにもどるが、件の郵便配達夫シュバルはひろった小石を「やむにやまれぬ」思いで積み上げていったのではなかろうか。ヴェルフリもまた、収容されたびょういんで、誰にたのまれるでもなく、描き続けていったこともまたやむにやまれぬことだったのではなかろうか、と想像する。
一般のひとが考える実利、功利の世界をほとんど逸脱してしまう情熱の過剰こそが、私たちの世界を構成しているのだと思うし、そのような世界の一端がこれらのアートに現れているのだとも思う。

「… が、それにしても私の内の製作欲はやむにやまれぬ激しさがあった。それを私はどうすることもできなかった」『わが著作生活の視点』1859 S.K


(続く)








2017年5月19日 (金)

せっかくなので 2

『アメリカの国民性』

1・2 節 アメリカの国民性の基調としてのアングロ・サクソン的性格 、ほか
アメリカへの植民が行われた16世紀末から17世紀を代表する二人の哲学者の考え方が大切だ。それはフランシス・ベーコンとトマス・ホッブズである。ベーコン哲学は文明の意義を自然支配にのみ認めた。そしてそのための機械文明を推進しようとした。ホッブズは、自然法と契約の考えを重視した。そのことは平和がえられなければ 戦争を正当化し、また契約を守ることを正義の根拠とした。この二つの考え方がアメリカに移った。

3節 アメリカにおけるホッブス的性格の展開
イギリス人が原住民を殺したのはスペイン人のようにではなく、はるかに冷酷無慈悲、悪辣であった。それは原住民が契約を守らなかったからである。彼らは契約とか法律とかの名の下に「堅実に」原住民を殺戮した。
4節 アメリカにおけるベーコン的性格の展開
アメリカの植民は風土との戦いであった。新しい衛生法が考えられ、肉体の鍛錬が自覚的に発明工夫された。そして自然を克服するためにもう一つ、機械力の使用が重視された。その機械文明の先駆者はベンジャミン・フランクリンである。こうしてアメリカ人は機械文明の最先端に立ったが彼らは機械の奴隷であって、そこには文化はない。機械の支配のもとでは人間精神は機械に適応し、すべては量で表され数字で表される。

5節 開拓者的性格
ベーコン的なものとホッブス的なものは開拓の中で結びついた。それは原住民との戦いであり、自然との戦いであったから。
元来は沈着で辛抱強いアングロ・サクソンの性格はアメリカでは
軽躁で向こう見ずなものに変わってしまった。アメリア人にとっての「幸福」とは強烈な刺激や精力の放出である。行動の喜びと緊張の喜びとも言える。アメリカのスポーツでは人々は力を出し切ることを好む。力を出し切ってぐったりするのが彼らには快感なのである。それとともにそこから立ち上がる時の爆発を必要とする。「アメリカでの生存は爆発の連続から成っている」。
アメリカ人にとっては強烈な刺激のために働き、機械を作り、自然を支配しようとする。彼らには事業の究極の意義は、失敗であれ成功であれ、その刺激の強さであり、その意味では賭博の魅力と変わらないい。
いまやアメリカ人は賭博的にアジアに進出し、アジア数億の人間の運命を蹂躙しようとしているが、その本質は、厚顔な自己正義感に浸りつつ、機械力をたのみとする賭博的な事業でしかない。彼らは「量」と「数字」で「力を出し切ろう」とするが、「道義的精神力」に欠けている彼らの運命としてその先にあるのは、「神経衰弱」でしかない。「焦燥しつつ一切を賭けてくる賭博者は案外もろく倒れるものである」


以上、まとめ終わり。


どう?やっぱり変じゃないい? 最後のところなんか、今の北朝鮮の放送みたいな感じがする。そもそも「焦燥しつつ賭けてくる賭博的な」戦争に打って出たのは、日本の軍部だったんだからね。それに、結局「量」を可能にする科学技術や経済力で日本はアメリカに負けたことを考えると、なんかがおかしいことはすぐに感じるよね〜。

で、こうやって纏めながら、和辻の発想のどこが問題か、かなりはっきり見えてきたよね。和辻は「文化」とか「精神」とかをなんかとても意味のあるものとするんだけど。それが可能になったのは大きな文明の力の中だという大切な事実を常に見落としているんだよね。経済の力とか、国家の法的な構成とかということも、「人倫」に数えなくちゃいけないのに、和辻はそういうのは頭っから無視してしまう。カントが「人倫の形而上学」を考えたり、ヘーゲルが「法権利の哲学」を考えたりするときに、常に人間社会を構成するさまざまな原理を念頭においていたことが、和辻の論説からはまるっきり抜け落ちちゃってるんだ。和辻の頭の中に出来上がった、一定の風土的な規定のもとにある「文化的共同体」だけが一人歩きして、社会の実体であるかのように考えられている。上部構造の側から下部構造へというアプローチを否定するつもりはない。しかし、和辻の議論では政治的、社会的さまざまな共同性の枠組みがいっきにすっ飛ばされて、ひたすら、「道徳的共同体」のイメージばかりが追求される。

こうなってしまうのは、「どうしようもない独りよがりのブルジョワ性」のゆえか、それとも、「観念的な共同体にすがるロマン主義的偏向」のためなのか?


そうした問いに答えるためには、もう和辻のテキストに沿っていっても無駄であろう。最終的に「近代の超克」という「空語」のなかにその典型をみいだす思想の諸傾向、さまざまな登場人物、イデオロギーの配置、具体的な事件、そうしたものの中に、この時期の日本思想をのみこみかつ現代にまで通底している根本的誤謬とそこから生じる権力諸関係の全体を読み解いていくのでなければならない。

せっかくなので 1

昨日のブログの「補遺」の最後のところで、戦時中の和辻の論文「アメリカの国民性」1943 について少し触れた。せっかくなので、今日はまずこの論文を検討することから始めよう。
全集第17巻に収められたこの論文について、古川哲史の解説では、この論文は、「思想」1937年12月号に掲載された、とある。だから、執筆後5年たって、太平洋戦争中にそれを改稿し、論文「日本の臣道」と合わせて筑摩書房の『戦時国民文庫』の第一冊として1944年7月に刊行したものであろう。
太平洋戦争中にその内容を改稿したという事実は読めばわかることであって、なぜかというと、客観的にアメリカの国民性を論じたというよりは、やたらファナティックにアメリカのアジア制圧を非難し、その失敗を期待している内容だからだ。

その時局にあわせて、読者の喜びそうなことを書く、というのは和辻らしくないというのが一般の理解なのであろうが、僕はそうは思えない。和辻倫理学における倫理とは何かといえば、常に社会的に期待される役割の型を認識し、その「面」=ペルソナを演じるところに倫理があるのだから、和辻は常にそれを意識し、それに向けて自らの Sollen を意識し努力してきたのである。もちろん解説の中で、古川哲史が言うように、「一時の単なる主観的信念の表白」をしたとは考えない。ここにもきちんと和辻の学問的良心や、信念が表明されていることを認めたい。また、そうであればこそ、戦後の全集刊行時に掲載を認めたのであろうことはいうまでもない。

しかしながら、21世紀にはいった現代の目からみると、なかなかの「トンデモ」的な議論になっていることがよくわかる。それについては、これから書くこの論文のまとめをとりあえず参照してもらいたいのだが、なによりも僕が気になったのは、このアメリカの国民性論というものが、ほぼ名著『風土』と同時期の作品だということで、この「トンデモ」的なものと「名著」とされるものは、全く同じ方法的視座から書かれているのではないかと僕には思えるからだ。なぜ『風土』は名著で、「アメリカの国民性」はトンデモなのか、同じ学問性、同じ真摯さでとりくみながら、その違いがなぜ出てくるのか?、と問うとき、逆に、「実は『風土』って、トンデモ本なんじゃね?」、という問いが出てこざるをえないのだ。それを僕は良い子のみんなには考えてもらいたいんだよね。


というわけで、今日は「アメリカの国民性」という論文の内容を簡単にまとめるね。

(次回に続く)

2017年5月18日 (木)

またも、「なんだよ!」の補遺

「土下座」(1920)『面とペルソナ』(1937.12)所収

「土下座」という掌編について、前回、苅部が和辻論の序章として取り上げている事から
僕も少しく話題にしたのだが、和辻という書き手の何とも言えない力というものがある事だけはきちんと強調しておきたい。ちなみに「土下座」は岩波文庫の『和辻哲郎随筆集』でもみることができる。その掌編の最後の部分を引用する。

(以下、引用)
彼は翌日また父親とともに自分の村だけは家ごとに礼に回りました。彼は銅色の足に礼をしたと同じ心持ちで、黒くすすけた農家の土間や農事の手伝いで日にやけた善良な農家の主婦たちに礼をしました。彼が親しみを感ずることができなかったのは、こういう村でもすでに見いだすことのできる曖昧宿で、夜の仕事のために昼寝をしている二三のだらしない女から、都会の文明の片鱗を見せたような無感動な眼を向けられた時だけでした。が、この一二の例外が、彼には妙にひどくこたえました。彼はその時、昨日から続いた自分の心持ちに、少しひびのはいったことを感じたのです。せっかくのぼった高みから、また引きおろされたような気持ちがしたのです。

彼がもしこの土下座の経験を彼の生活全体に押しひろめる事ができたら、かれは新しい生活に進出することができるでしょう。彼はその問題を絶えず心で暖めています。あるいはいつか孵る時があるかも知れません。しかしあの時はいったひびはそのままになっています。それは偶然にはいったひびではなく、やはり彼自身の心にある必然のひびでした。このひびの繕える時が来なくては、恐らく彼の卵は孵らないでしょう。

(以上、引用終わり)


疑問。「この一二の例外」と文章にあるが、例外はひとつではないのか? 「二三のだらしない女」から無感動な眼を向けられたのが一二だったのか?それとも言葉の勢いからくる「あや」のようなものなのか。

そんな小さな疑問よりもっと大事な事。この「土下座」は大正9年の文章なのだが、『面とペルソナ』は、昭和12年に纏められたものであって、言って見れば、17年前の文章をその時点で纏めた和辻の意図は何だったかという事である。その答えは簡単である。その「ひび」が、まだ癒えていないか、「癒つつある」かのどちらかである、ということでしょう。和辻が、敵とみなした「個人主義」「町人根性」「アングロサクソン的、ホッブズ的、ベーコン的、量の精神」、こういうものに日本精神が勝利するあかつきにはその傷が癒えることを夢見るロマンティックが、まさにその出口の明かりがみえつつある、という認識のもとにこの文章が収められたのだ、ということなのです。

和辻のすごいところは、そのような20年後の自己の思想の運命を、ごくごく「小さな」村の葬儀の出来事の中に見通していたようにも見える事なんだな。和辻の文章には常に語り手の意図を逸脱して、それ以上の何かを捉えてしまう「文それ自体の力」としかいいようのないものがあるともいえる。


今日2017年5月18日、朝鮮半島北部の指導者は、次々と軍備の拡大をアッピールしており、それに対してアメリカ合衆国は、巨大空母を配備するなど対応している。こんなときに、次のような、ある学者(ベルナール・ファイ)の言葉を、和辻の「アメリカの国民性」1943.12 という論文に見いだすと、なんだか変な気持になってくる。曰く、

「アメリカでの生存は爆発の連続から成っている」


じゃ、良い子のみんなまた近々!




またも、「なんだよ!」

なんだよ、結局、苅部 直の『光の領国 和辻哲郎』岩波現代文庫・学術24、2010.11 全部読んじゃったよ。それにしてもこの本、さすがに東京大学の教授をやってるだけの人が書いたとあって卒がないね。まあやばいところはできるだけアッサリと触れて、かといって過去の人物をただひたすらヨイショして持ち上げるばかりでもなく、まあそれなりにカッコつけてみるってことはできている本だ。それにしても、岩波現代文庫に入れるに当たって、3編ほどの付録資料が追加されたんだが、このさりげなく挿入された3編のうち、3個目の破壊力はなかなかのものだ。文庫化される前の1995年の創文社版にはなかったものだから、苅部さん、これが入れたくて文庫化したのかな、とまで思えるくらいすごいものだ。

この付録を見るまでもなく、和辻哲郎という人が、覚悟の上で総力戦体制にコミットしていったことは、彼の『倫理学』をみれば、ハッキリしていることは、すでに前のブログで触れた通りだ。このような「大知識人」といえども、時代の雰囲気に同調しというか、自ら笛をふいて、それを吹聴していったことが「日本哲学」の必然だったのかとおもうと、本当に暗澹たるきもちになる。そしてその事実を知ってか知らずか、相変わらず、何故に和辻が「ロマン主義的冒険」へと自らおもむいたのか、きちんと整理することなく、ヨイショ記事を書き続ける平成時代のバカどもにはがっかりするしかない。まあバカは相手にしてもしかたないから、それはいい。僕としては、「ロマン主義」に陥りがちな心のありかたを自己反省してみたい、というそれだけのことである。前回ふれた、和辻の一般人に対する「無神経」っぷりに関して言うと、たとえば、和辻なんかよりはるかに悪智慧がはたらかない 平泉 澄なんて学者は、大学で 「農民の歴史を学びたい」と言った学生に対して「豚に歴史がありますか?」などと答えたために、後にすっかりそのことを言い立てられるようになってしまったものである。それに比べると和辻の差別意識はそこまでひどくはないように見える。しかしそれはテクストを読めない人にとってそうであるだけなのだ。

たとえば苅部が、ここで問題としている和辻論の枕として「土下座」という掌編を取り上げる時も、「日本回帰」やら「「形」を重んじること」という本のテーマにとって都合のいいことを取り上げるのだが、僕がこの「土下座」を読んだときに真っ先に感じた、ある強度を伴った記述は、和辻のほとんど敵意のこもった視線のもとに置かれた《娼婦》たちの登場するところなのだ。苅部は要領がいいから、その点についても無視はせずに多少は取り上げてみせる。そして結局は和辻の体験した村落の「共同体体験」は、和辻の「思考の閉域の内で展開されたドラマにすぎない」という。だが、問題はそこじゃないだろ。あきらかにそこにいる人間を、共同体の外部の人間として切り捨てる態度そのものが問題なんだろ。この時期の農村にそうした労働者がなぜ存在するのか、そういう社会的背景をまったく無視してしまう、いや無視するどころか敵対的に捉える和辻の姿勢そのものが、根本的に変なんじゃね? っていう風にはいわないところが所詮は東大の大センセイ、ってことなんだろうな。

平泉の「豚に歴史がありますか?」の差別意識と、「娼婦」の視線とぶつかる和辻の差別意識と、どっちがマシか?という議論をしようというのではない。本人が気づかない差別意識、っていうのがまあ、僕には興味ふかい、ってことだ。付録資料の一つ目、津田青楓とその妻山脇敏子の離婚を論じた 大阪朝日新聞1926年8月5日 の記事「家庭の私事」も、和辻本人としてはかなりな「正論」を述べているつもりなのであろうが、肝心の妻敏子のことは名前さえ触れられないのである。それどころか、敏子の留学を「生きがいを感じるために・・パリくんだりへ出掛け」という表現にはもう差別意識バレバレである。そのあとでは留学の理由を「パリへ出掛けたのは、世間へ出て人目をひきたいといふ妻らしくない慾望」のためと決めつけているのも、もはや笑ってしまうくらいのシロモノだ。

人々によく読まれ、影響力を持つ和辻のような著述家は、多かれ少なかれ同時代の人々と同様の差別意識や世界観を共有しているのだろう。だからそのことに目くじらをたてる必要はないのかもしれない。でも、付録資料の三つ目にあるように、一般人みたいに「米英畜」の「聖戦」を叫んじゃうようになったら、これはカンベンして欲しいわ。


ごめんよ、嫌な話ばっかになってしまった。ホント、良い子にとっては聞かせてはいけない、
「お耳汚し」になってしまったね。ちなみに「お耳汚し」ということばは教員会の時にS村先生が使ったのが人生で初めてのケイケンだったな。Eノさんとよく酒飲んじゃ話題にしたわ。
じゃ、これに懲りずにまた見てね。

2017年5月13日 (土)

これから

前回、軽井沢論をやるぞ、的なことを書いたが、これから現地調査をして書くつもりである。もともと僕は軽井沢が苦手である。僕の印象としては、夏の軽井沢の印象が主なのだが、なんか異常に人が多い。それから、物の値段が異常に高い。なんかラーメン一杯1500円、みたいな。それにせっかく地方を訪ねているのに、その地方らしさをあらわすものがほとんどない。僕が地方を訪ねると、まず期待するのは、神社仏閣、辻の小祠小堂。田んぼの中を緩やかにカーブして集落に続く道。ちょっとした木陰。山裾の道のおだやかな佇まい。こういったものだ。もちろん軽井沢にもなくはない。例えば旧碓氷峠の峠の熊野神社とか、中軽井沢駅にほどちかい、相撲の土俵が設けられた長倉神社の境内とか。でも、軽井沢にくる人はそんなものに興味があるのではない。人々は「高原の爽やかな空気」の中で、散策したり、サイクリングしたり、テニスしたりするらしい。そして、ショー記念礼拝堂を見たり、「茜屋」でコーヒーを飲んだりするらしい。
ちょっと待って。僕はワンゲル・ハイキング・山岳部などのキャリアが長くて、高地といえばやっぱ2500メートルから3000メートルのイメージしかない。だいたいが軽井沢ではほぼ車の渋滞がいたるところにあり、爽やかな空気どころではない。僕は自転車歴も長いので、ママチャリで「サイクリング」のイメージはない。クリスチャンでもないのに、何を好き好んで特に壮麗豪華でもない教会に行くのか?、さっぱり理解できない。そして物価が高い。人が多い。ようするに、ナンモ良いことないじゃん!

そんな理由で、ずーっと「軽井沢」を拒否し続けてきた。

ところがごく最近、ものの見方を変えたら、急に軽井沢を理解し始めたのだ。

いまでは言えなくもないね、「軽井沢って良いところだナア!」みたいなこと。


軽井沢は日本の避暑地の中で、もっとも高いブランド価値を獲得した場所だってこと。そのばしょが涼しいとか、便利だとか、景色が良いとか、そういった機能的な価値に還元することのできない、プラスアルファの、「ブランド価値」としかいえないものを軽井沢という場所は獲得しているのよ。
そしてそういう場所のオーラを、伝統的な genius loci から受け取るのではなくて、歴史的には100年程度の「近代」の人為的な努力というか、日本の支配階級の生活様式の中から自然に積み上げてきたことが軽井沢の最大の特徴なんだってこと。もちろん自然のもたらす圧倒的な剰余価値を、浅間山から受け取っていることはもちろんだけど、極論すると、人々は浅間山を眺めたり登ったりするために軽井沢にくるわけではない。

軽井沢に集まった「文人」は軽井沢ブランドを生みだす、宣伝隊、イデオローグであって、protagonist ではない。 主役は「日本の近代」そのものなのだ。

明治以降の歴史の中で「支配階級」になった人々のコロニーとして軽井沢は建設された。皇族・貴族だけではない。政治家、産業界の成功者、そして文人・芸術家。軽井沢の開発から利益を得ようとする鉄道会社、不動産会社。そうした人々の思惑や情念が、結果として「軽井沢」というブランドを生み出した。驚くべきことに、その自己生成メカニズムは現在なお進行中である。つまり、「軽井沢」というブランドは現在なお生成中であること、人々の欲望や消費、情念を飲み込みながら、生成する、つまり「生きている」ということなのだ。

そのことがわかると、「軽井沢」は、がぜん面白くなった。ひとつひとつの地名や道路の名前にも「近代」が刻まれて「作品化」している。本当なら「物象化している」といいたいところだが、徒らに議論を難しくしないために、あえて「作品化」と呼ぶことにする。そのみごとさについてはまた後にみてみたい。

いずれにせよ、休日の午後、万平ホテルのテラスのティータイムも、ただの「お茶を飲む」行為なのではなく、あるひとにとってはジョンレノンの身振りのミメーシスであったりという形で、ひとつの作品形成行為となっていくのである。「お茶を飲む」という行為を通じて自らが「軽井沢」というブランドを作っていくことに関わるのである。

2017年5月11日 (木)

岩波話続き

前回の議論は、けっこう面白いものになった。今日はその続きなのだが、僕の気持ちは、良い子の皆さんが期待するものとは違うと思う。僕の気持ちは、「軽井沢論」へと移っているのだ。

前回、和辻の掌編をとりあげ、岩波書店の冊子を意識して、岩波をヨイショする目的で書かれたことを取り上げつつも、和辻の無意識の視線が向かう先から新たな問題を提起し得たと思っている。

本格的な軽井沢論はこの夏以後としたいのだが、軽井沢論に関して、今日、第一に話題としたいのは、「軽井沢とは、内国植民地なのである」ということかな。

戦前の軽井沢の隆盛にともない、軽井沢から草津にいたる軽便鉄道が敷設された。この路線は、現在の軽井沢駅から始まり、三笠付近を通過したのち、山の勾配を克服するために大きく西を迂回して鶴溜を通り、ふたたび北上して小瀬温泉を通過する。そして群馬県境では、ふたたび東寄りのコースをとり、国境平を通過、西に下がって、大学村の西側、現在も記念の駅舎の残る北軽井沢駅にいたる。そのあと、吾妻川の川崖を西に降りて、一旦万座・鹿沢口駅付近に至り、ふたたび山を登って草津に至る、約55キロほどの山あり坂ありのコースを通るものである。この路線が引かれた背景を考えると、まず第一に、草津温泉が多くの旅行者にとって重要な目的地であったことがある。草津に至るのに現在の渋川から長野原に至る吾妻線が未開通であったので、横川から碓氷峠を越えて軽井沢に至り、そこから山越えして入るルートが意味があったのだろう。そしてもうひとつは、軽井沢から北軽井沢までの一帯が、すでに別荘地として、都会から訪れる多くの避暑客の目的地になっていたことが理由だったのだろう。もちろん、1940年前後には、草津付近の鉱山が産出する硫黄資源の運搬にも一役買ったことはまちがいない。また草軽軽便鉄道の開通と別荘地の発展とは軌を一にするものだった。(この路線に関する詳細はこちら

そんな草軽鉄道の歴史を踏まえてみると、ますます、前回の和辻の思い出話の妙味が見えてくる。というのは、和辻と岩波は、時間がかかる高原列車を利用するのではなく、全コースを車、たぶんタクシーみたいなもの、で移動していて、あのタイトル、「ああ、岩波文庫の岩波か」というのは、その運転手の言葉だからだ。
そんな新しい乗り物を駆使して、岩波茂雄の別荘修理の様子を見に行った二人、それが「成功の証」というのが、この掌編の隠れたテーマである。(岩波文庫がいかに普及したかを岩波茂雄自身が語っている。こちらを参照) その一方で、都会の成功者、とくに和辻にとって、目の前に広がる長野原の村落のようすは、「底知れぬ哀れっぽさ」としかいいいようのない、そのような視線の対象である、ということが僕の問題とするところなのである。そもそも、和辻の記述では、そこが「鎌原村」であるかどうかさえ、記されてはいない。そこを鎌原であるとしたのは、僕がそう書いただけなのだ。もとの文章を以下に引用する。

・・・翌日は天気がよかった。岩波君は自動車を呼んで、浅間高原から鬼の押出しの方へ案内してくれた。浅間山がこの熔岩をふき出した時に、おおぜい人死にがあった。その罹災者を弔うために建てられた寺が鬼の押出しの北のほうの村にある。その寺へも連れて行ってくれた。わたくしには鬼の押出しよりもこの農村と寺の光景の方がよほど印象深かった。そこには何か奇妙に人の心を捉えるものがあった。人生の底知れぬ「哀れっぽさ」というふうなものが感じられたのである。


これだけである。もしかしたら万が一、鎌原村のことではないかもしれない。史実としては鎌原観音堂は災害以前からある寺だからだ。溶岩流に飲み込まれたのちに、善光寺が関わって災害に伴う犠牲者の慰霊と供養が行われたらしいから。


敗戦直後、日本の農村や農民に対する東京の知識人の恨みがましい視線は、戦後民主化にかかわった知識人の読み物にしばしばと言えるくらいにあらわれる。彼らにとっては、農民は無教養で、「封建的な」日本の文化の担い手であり、日本社会の克服すべき旧慣陋習のたぐいをあらわしている。そこには学童疎開中のイジメの記憶や、戦後の食糧難時代に食料をねだっても気前よく分けてもらえなかったことへの憤りまでが混じっている。和辻にはそういうケチくさい視線はない。しかしながら昭和28年の時点で昭和11年を回想する和辻の記憶にあるのは、恨みのような感性にかかわる体験ですらない。村落の名前の固有名さえ、論じるに値しない。ましてやそこに住む人々の具体性など、なんの関心事にもならない、著者の情動としては、何か得体の知れない不定形な感情であり、あえて名付けるとすれば「哀れっぽさ」というしかない、そのような情動を喚起する対象として、ひとつの「光景」を作り上げているものにすぎない。


これを僕としては「コロニアルな視線」とでも名付けたいんだな。それをうまく説明するのは簡単ではないような気がするけど。
植民地化を進めるものと「原住民」の目に映るものが全く異なるというだけでなく、そもそも植民者にとっては、ネイティブが何を考えているか、どのような生活をしているかは、全く視界の外にある、というそんなことだ。軽井沢という場所は、そのような都会の上流階級にとっての居心地のいい空間として、開発されてきた。

これから後に「軽井沢」論を展開するとすれば、それは言ってみれば「コロニアリズム批判」みたいな視線からなされることに成らざるを得ない、ということがまず第一の論点だ。

それから第二には、和辻論も含めて、戦前ブルジョワジーの保守主義的議論がどのようにして崩壊して行ったかを、一方では社会変革的な社会論の形成崩壊を視野に入れながらきちんと見て行く必要がある、ということだろう。で、保守主義の限界みたいなものを見て行く時に、ここで僕が強調したように、いわば無意識的に繰り出されてくる、支配階級の「無関心な視線」に注目してみるというような、論点もアリかな、と言うことだ。その背後に僕としては、「従属階級論」(サバルタン研究)を見通している。

あー、ゴメンよ〜。今日は和辻氏をほめるつもりだったんだヨ。和辻が農村と寺の様子を「よほど印象深かった」と感じたのは、すごい鋭かったと思うんだよね、鎌原の観音堂の溶岩流に飲み込まれた人の人体の形が発見されたのは、学習院大の大石教授のグループが調査にはいった1980年前後のことなんだからね。それより半世紀も前に、それこそなんにもない寒村に「よほど印象深い」思いを抱いたのは、ほんとに和辻氏の第一級の直感だと思うから。いやホント、イヤミでもなんでもないヨ。そうした直感力こそ、氏の議論の力なんだから。
今日はこれくらいにしとくけど、良い子のみんな、あまりにも議論が難しいだろうか?
ゴメンよ。でも、難しいことを考えられるのが良い子のみんなの求めていることではないのかな?答えがすぐに出るようなことしか考えたくないというのなら、良い子とは言えないよね。じゃ、また。

2017年5月 9日 (火)

ああ、岩波文庫の岩波か

和辻哲郎全集は1961年から始まる刊行を第1期とすると、続く1976年からのものが第2期となる。その後1989年から第3期の刊行となる。それまでが20巻からなっていたのに対して、この第3期の増補版では、25巻と別巻二冊と大幅に原稿が増えた。従来の全集にはなくて、新たに加えられた小稿と付属の月報には、なかなか面白いものが含まれている。

今日の和辻先生ばなしは、そんな掌編のうちのひとつを話題にする。そのタイトルは、今日のこのブログのタイトルの通り。岩波の小冊子「図書」1953年4月に載ったものである。書かれたのは戦後だが、話題となっている出来事は戦前の昭和11年のことである。日本橋で岩波茂雄に偶然会った和辻が、軽井沢に行った話である。この掌編の肝は、昭和6年には知られていなかった岩波書店が、11年には岩波文庫の成功を通じてよく知られるようになっていて、タクシーの運転手がタイトルにあるような言葉を、ある種の発見の喜びのように語ったということで、それほどまでに岩波茂雄の方針が人々に影響を与えていたのだ、という岩波へのヨイショ話である。

ぼくが、興味を持ったのは、その話のホンスジではない。前々から話題にしている、戦前の人々の暮らしぶりの件である。野上彌生子『迷路』の主題の一つでもある、戦前の階級分化、豊かなものと貧しいものの驚くほどの隔たりと、その事実に対するブルジョワジーの盲目、これらを野上は客観的に、もちろん告発の意味合いも込めながら描き出しているのであるが、戦前ブルジョワジーにとって「軽井沢生活」というものが当たり前の日常の光景であったことを、野上の語る小説と同じように、この和辻の小文がよく示しているのである。

話はこんなことだ。昭和11年の秋、奥さんと展覧会を見に一緒に日本橋に出かけた和辻が、よく行く「菊寿司」で食事した。するとそこで偶然、岩波茂雄に会った。岩波は和辻を軽井沢に誘い、和辻はその場で奥さんと別れてそのまま岩波とタクシーに乗り、上野から軽井沢に向かう。二人は「グリーンホテル」に泊まる。(念のため申し添えますが、グリーンホテルは現在北軽井沢にある「グリーンプラザ」とは何の関係もありません。グリーンホテルは西武が千ヶ滝の奥に建設した歴史のあるホテルです。現在は解体されています) 翌日は車で北軽井沢に行き、鎌原の観音堂を訪ね、法政大学村の岩波の別荘の修理の現場を見て帰った、とそれだけの話である。
ちなみに小生も鎌原観音堂は訪ねたことがあるが、そこは浅間山の噴火に伴う噴出物で、埋もれてしまった当時の生活が近年の調査で復元され、災害の恐ろしさを伝える歴史資料として周辺はずいぶんときれいに整備されている場所である。
当時はそんな風に整備されているわけではなかったのにもかかわらず、和辻にとって、この場所はずいぶんと印象深かったらしい。
和辻は、その場所で「人生の底知れぬ「哀れっぽさ」というふうなものが感じられたのである」と書いている。しかし、感想はそれだけである。話題はもっぱら、軽井沢の一角に岩波文庫の広告がたつようになって、そこそこ人に知られるようになった、というその点に向かって行く。
大学村の一隅にあるクラブは「比較的きれい」で、そこで昼食を食べたことが、鎌原の話の後に続く。

このなんでもない文章を書くにあたって、和辻の頭の中にあったのは、岩波茂雄の成功をほめようとする、その一点だけであろう。しかし、昭和28年という年に書かれたその原稿で、北軽井沢の寒村のようすがただひとこと「人生の底知れぬ哀れっぽさ」と形容され、後は日本橋の寿司屋や軽井沢のホテルの固有名によって満たされているのを見るとき、昭和11年というその時代の、この社会のありようを、あらためてまざまざと感じざるを得ないのだ。それがなんであるか、このブログを前から読んでくれている人ならわかると思う。階級が紛れもなく存在したある時代の姿である。そして、そうした時代やそれがもたらした惨禍の問題を、敗戦後8年を経過してなお、感じることのできない、鈍感な知性の問題である。

大正8年、『新潮』11月号で、前月号に載った森田草平による批判を論難している。森田が和辻を「金と暇の意義を過小評価している」と批判していることに対して、森田だって結局は「自分一己」の満足を求めてるだけじゃないか、的に論難しているのである。

同じことである。和辻に見えているのは、「クラブの比較的きれいな」食堂であり、軽井沢の広告塔であり、「菊寿司」なのだ。農村の風景はただの「底知れぬ哀れっぽさ」一般に解消されてしまう。


僕は、和辻を貶めようとしているのではありません。いつも非常に感心しながら読んでいるのです。ですから、たまには褒めてみたいのですが、書き出すとこんな風になってしまいます。どうもすいません。和辻がとても秀れた書き手であるが故に、はからずもその時代の偏見やムードを言ったものを正直に描き出してしまっているのだ、というのが僕の考えなのです。話者の無意識を通じて、時代の無意識を垣間みようとする、そんな試みだと思っていただければ嬉しいです。

じゃ、良い子のみなさん御機嫌よう。

«さてさて

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