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2016年9月

2016年9月29日 (木)

『旅愁』 (下) 続き

「あっ」という間に一週間が過ぎる。大したことはしていない。休みの日には、自転車乗ったりして、勤務中のストレスを発散しているうちに、時間が過ぎていく。ストレスを発散している時間も勤務時間に勘定してもらいたいところだが、たとえば「のんびり自転車にのる」という今のストレス発散の方法も、万が一、それが勤務の一形態だとなったとたん、面白くもなんともなくなり、ペダルをこぐこと自体が、重労働だと思えてくるだろう。「働く」という人間の行為に関して、我々の情緒というのは、なんとも言いにくいひねくれた面があるようだ。

さて何かと不愉快というか気づまりな勤務の毎日ではあるが、ささやかな喜びを与えてくれるのが、本を読んであれこれ考えることである。前回のブログで報告した、横光利一最後の小説、『旅愁』もついに下巻を読了した。下巻に収められた第三篇から第五篇へと読み進めていくうちに、読み始めた当初にびっくりさせられた「日本バンザイ」的な要素はだんだんに影を薄くしていく。それから主人公がその彼女(千鶴子さん)との関係で、自分が古神道を大切にしていて、千鶴子さんがカトリックなので、なんか心がモヤモヤするモンダイとか、自分の旧領主がカトリックたる大友宗麟の大砲でこてんぱんにやられた問題とか、自分の母親が南無妙法蓮華経でどうしよう、とか、その手のモヤモヤはだんだんに薄れていって、なんとなく二人の間には和解の要素が増えていくように物語は進行していく。ただし、千鶴子さんはいつも二人の未来に、なんとなく「不安」をかかえている、という状態が続くのである。

これら第三篇から第五篇が、1940年代のどの時点で書かれたのかはよくわからないが、後ろのほうは明らかに戦後にかかれたのだと思う。上巻までは明らかに1930年代のおわりころに書かれ、下巻のほうは太平洋戦中から戦後にかけてかかれたものと思われる。

そこから未完となったこの作品の構成意図を斟酌するに、千鶴子や主人公矢代の「漠たる不安」が、本土を遠く離れたところで展開している日本軍国主義の冒険的な戦闘行為のかたちなきコダマであることを、そのコダマの心像が、「漠たる不安」の源であったことが了解されて作品の結びにいたる、といったようなものではなかったろうか。

いずれにせよぼくにとって大事なことは、この作家の方法意識と、それが映し出している社会の物質的条件の条件如何という、その点にかかわるのである。今後その点を大きくとらえて考えたいと思っているのが、ようするにこの「新感覚派」的な心理描写の対応物である、日本軍国主義とそれを支えている日本資本主義の関係性を、また別の関係性の軸を置くことによって照らし出してみたいと思っているのである。別の関係性というのは、ようするに1940年代後半に日本の統治階級が展開した社会経済的諸条件を言論がどのように正当化し、あるいは込み入った論理を通じて、その込み入った現実を理解しようとして、結局のところ「大東亜新秩序」イデオロギーに飲み込まれていったのか、をきちんと見極める必要があとうかと思うのだ。その際ひとつ参考になるのが、いわゆる『近代の超克』座談会であり、文壇の傾向としては「日本浪漫派」イデオロギーなんかも問題にしたいところである。たとえば、『近代の超克』という言論が提起される必然性と、『旅愁』の登場人物たちがおずおずと語る「宗教に関する立場のちがいをどう考えるか」という課題との間にはなにか内的な関連があるように思えるのだ。

『旅愁』が問いかけた何ものかが、横光の死とともにうやむやになり、戦後生き延びた「新感覚派」の残党が、プチブルジョワの日本主義イデオロギーの悪質な担い手になっていく構図をきちんとみるためにも、どうしても戦中の思想問題の帰結を見極めなければならないと思っている。それが横光という作家の独自性・現代性を救いあげることにもなる。

2016年9月22日 (木)

横光利一 『旅愁』 (下) 

岩波文庫版 『旅愁』(下)が、書店にならんだね(9月16日第一刷発行)。ここには第三篇からあとの部分が収められている。最初の第三篇はどうやら昭和18年(1943年)ころのものらしいので、いよいよ太平洋戦中の雰囲気の中で書かれたものということになる。

さて、いよいよ主人公がシベリア鉄道を使って日本=満州里にはいるところから小説が始まるのだが、読み始めてすぐ、感覚的な日本万歳の話に突入していく。その賛美のさまはすさまじく、銀座のすし屋にはいってマグロ食って大バンザイはともかくとして、その店の板張りのしみにまで、大感激するという、もはや、トンデモレベルの日本バンザイっぷりである。

ここで問題なのは、それが抽象的レベルでの日本賛美といったものと微妙に違っていて、あくまで横光ならではの細かい「感覚」レベルでの経験からくる「喜び」がもとになっているところなのである。ながらく外国旅行をしてきた人が、国内にもどって「ほっと」する感覚みたいなものがやたらに誇大にかきたてられているような感じである。

まだ下巻を読み始めたばかりなので、余計なことは言えないが、横光利一という鋭い感覚を持った人が、そうであるがゆえにそうなっていってしまった、その辺の理路をこれからゆっくりと考えていきたいものである。

さて、早くもブログの危機である。二学期が始まり、ふたたび不愉快な都市生活・労働者生活にまきこまれることになった。前回の更新から多少日があいてしまった。しかもこの夏休みに書いた十いくつかの記事をみると、十分に面白いではないか。いまのぼくの興味のありかがとてもよく記録されていると思った。満足である。マンゾクしたからブログを更新するのはもう止めてもいいかな、とも思う。しかし3-6の生徒諸君にセンデンしてすぐに止める、というのも肩身が狭い。しかたなしにこうやって書きだしたわけだ。

こんなひん死の状態で、先が続くかどうか・・・・とりあえず、第三回模試の問題ができたココロの余裕の中で、記事の更新となった次第である。

2016年9月11日 (日)

9月10日総武K会でのスピーチ要旨

(要旨)・・・笑いをとろうとして発言した部分をのぞいたスピーチの残りの部分

このごろ水害などが各地で頻発しているもようである。そのテレビ報道をみていると、よく、 「 60年ここにすんでいるけど、こんな災害は、はじめてだ」 みたいなことを言っているおじいさんおばあさんが出てくる。また、天気予報なんかでも、「50年に一度の・・・・」 とかよく耳にする。 こないだの経済危機の時は、政治家が「100年に一度の危機で云々」なんてことを口にしていた。(ついこのあいだのことだが、忘れてしまった人もるかもしれない)。 先般の東北の震災では2000年に一度だから「想定外で云々」といった言葉が聞かれたものだ。こうした言葉の中には責任を回避するような含みもあるかもしれないが、今日はそのことを問おうというのではない。たとえば100年に一度の出来事、ということになると、もう前回の出来事を経験として保持している人はまずないということである。もっと端的にいうと、その手の出来事に関しては、「経験を積んだ年長者の意見」なんてものは、てんであてにならない、ということである。私たちの社会では、「亀の甲より年の功」、みたいなわけのわからない表現で、年長者の経験知を大切にするべきだ、みたいなことがよく言われてきたわけである。しかしながら、これから起きることが60年に一度とか100年に一度とかということが頻発するとなると、そういう「経験知」にたよっていてはまずいのではないか、ということはだれでもわかることだろう。

ではどうしたらいいか。答えを示すことは簡単である。じつはその答えとは、僕自身がこの職場で、ぼく自身の行動原理としてきたことでもあり、実際に実践してきたことでもある。簡単にいうと、「こういう場合は以前はどうしたか」とか、「前任者はどうしたか」みたいなことはあまり考えなかった。むしろ、さまざまな問題に直面したとき、ぼくは常に「自分の理性や判断力に従え」、というのをいわばマキシムのようにしてきたのである。さきほどスピーチした人が、前理事長、M10氏のことに触れていたが、M10氏から伺った、次のような話があり、ぼく自身、その話を聞いてM10氏をレスペクトするようになった件がある。M10氏がかつてMinistry of Finance にいたとき、そこであるスキャンダルが起こった。M10氏はそれに連座することはなかった。しかし、そのスキャンダルの場に行くことはあり得たのである、と。ではその場に何故M10氏は赴かなかったのか、それは、誘われたときに、特段はっきりした理由はないのだが、何か、「その場には行かないほうがいいな、という風に考えた」というのである。

これだけでは、読者諸氏はなんのことだかわからないだろうが、わかる人にはわかるのである。簡単に言っちゃうと、 それはソクラテスにおける「ダイモーン」なのだ、ということなのだ。僕がいう「理性」とはそういうことなのだよ。人がリスキーな事柄の前で、何かを「判断する」とは、そういうことなのだ。

で、ぼくはM10氏の言わんとすることがすべてよく飲み込めただけでなく、社会において重い責任を持った人が、自らの判断の原理に関してこうした明晰な意識をもっていることに打たれたわけだよ。それ以来ぼくはM10氏は立派な人だと判断するようになったのだ。

経験が生み出す「理性知」について、ぼくがいいたいことはこれだけ。

人間のcompetencyみたいなことが今問題になっていて、ぼく自身そういうことがとても大事だと思っているし、competency を数値化したり客観化したりすることも面白い試みだと思っているけど、 competency につながる究極の人間力は、 上に述べたような意味での「理性知」のことなんだと思ってる。

世の中が今激しく変化し、「今までの知識が役にたたない時代がきた」みたいなことを言う人がいるかもしれない。けれど「今までの知識」と称するものが本当の意味で「知識」だったのかは、自問したほうがいいのではないか? 多くの人が「危機意識」を抱いてくれるのはぼくにとっては好都合である。そして、人々が浮足立っている今、「もう年寄りのいうことなんか聞いても無駄だ」と思ってくれるなら、それこそ僕にとっては好都合である。もうだれも聞く耳をもたないとするならばその時こそ、ぼくの出番なのだと思っている。もうだれも聞いてくれないのなら、その時初めてぼくは堂々と「年寄りの知恵」について語りたいと思うのだ。(どうせ聞いてくれないんだからね)。

というわけで、いま僕は決めたのだが、これからは僕は人々があえて聞きたいとは思わない過去の事柄について語る、 職場の「語り部」になろう、と。

そう、ぼくは「語り部」なんだ。きっと、これがじじいにできる唯一の社会貢献なんだろう・・・・などとスピーチしながら突然思いついて、「語り部」宣言をしてしまった総武K会におけるHATOなのであった。

2016年9月 9日 (金)

年寄りの冷や水?

去年から今年の春先にかけて、耳鳴りがする次期が続いた。医者にもかかったけどよく原因がわからない。もうすっかりじじいなっちゃったもんだと寂しい思いをしていた。

さてその原因なんだが、思い当たるのが、オーディオだ。

15年位前に秋葉原のヤマギワが建て替えバーゲンをやっていたとき、DYNAUDIOという会社のスピーカ―を買った。高価ではないけどまあそれなりのブランド品で、これでもう新たにスピーカーを買うことはないと思ってしばらく使ってきた。 ところが数年前 Danish  Audiophile Loudspeaker Industries ( DALI )というハイエンドスピーカーの会社が、中国市場向けを意識したのか、廉価版のものを売っていて、その小型スピーカーの音に驚愕して、ついその少し上のバージョンを追加購入してしまった。たまたまドイツグラモフォンの111周年記念の「111」というCDのセットとか、ABBADOのThe Symphony Edition を買ったこともあり、新スピーカーでCDを大音量で流し続けていた時期が続いた。いまから思うと、その時期と耳鳴りの時期が一致しているんだね。

その後、CDも聞き飽きて、あまり聞かない時期が続いた。この時期は耳鳴りが治まっていたんだけど、あまりそのことは意識しなかった。ところが最近、また耳鳴りが復活するという事件が起きた。これで耳鳴りとCD聴取の関連が大きく疑われることになったのだ。このきっかけとなったのが、Maurizio Pollini のピアノCDである。

たまたま追分を散歩していたとき、そこにある旅館の「油や」というのが、旅館業はほどほどに、中でアート作品とか古本なんかを展示する施設に変わっていたんだ。そこで、普段はあまり見ることもない中古CDをなんとなく眺めていて、ポリーニの珍しいCDをみつけたのである。アメリカの'Fachmann fur Klassischer Musik ' Society というところが作ったもの。いかにも怪しい雰囲気なのだが、ビニールで封がしてあって、中身がわからない。これはちょっとした賭けだな、と思いつつとりあえず購入。家にもどって封を解いて中身をあけてみると、解説の類は一切なく、見るからに手作りのCD-Rである。ようするに海賊版なんだな。曲はシューベルトのソナタのライブ録音。もし偽物だったらどうしようと、半ば疑いつつで聞いてみると、いやこれがびっくり、録音も素晴らしいうえ、演奏はふだんグラモフォンで聞くポリーニの演奏とは異なって、すごく生き生きとした演奏になっている。1970年代にポリーニがN響に客演したときたまたま二回も、ポリーニの演奏を聴いたのだが、その時の演奏っぷりを思い出させるものだった。

そんなこともあり、ひさびさにDALIを存分に鳴らした。

そして耳鳴りが復活した。

ま、スピーカーのせい、というよりも、部屋のコンクリの反響が強すぎるせいなんだと思うけどね。いずれにせよ年寄りに強い刺激は禁物だね。

今日は中身のない駄弁でした。おとといから今日にかけて自クラス(黄組)でブログ宣伝したら早速PVがのびたので、何か書かねば、と思って書きました。ごめんなちゃい。

2016年9月 7日 (水)

今日も下らなかったね。

まあ、自分の無知や不勉強っぷりをさらすようで、あまり大きな声ではいいにくいけど、いま小説というジャンルにはまってるのよ。 スタンダール『赤と黒』、あくまで日本語訳で読んでるだけなんだけど、面白いね。ほんとうに面白い。いまちょうどマチルドと舞踏会でいっしょになるところまで来たんだけど、たとえばこの場面一つ取り上げても、本当に面白い。アルタミラ伯爵とジュリアンが、政治の話を夢中になってしているところにマチルドがなんとかからもうとする下り。世界に対する熱烈な興味を吐露する若者と、一方人間への興味が芽生えだした貴族の令嬢の、この重なるような重ならないような、どちらも本当に優れた感覚を持った人間たちの間で、すれ違いの情熱が行ったり来たりするようす。何かが始まる予感に満ち満ちた豊かな時間の流れ。もう涙が出るほど素晴らしいんだなァ。

人間の厚みというのかな、人間の興味というもののいろいろな層みたいなものが、ちゃんとかき分けられてる。もちろん、その背景にある、身分、階級の重み、1830年前後の政治社会状況の変化、そうした客観的というか社会の物質的条件が、きちんと登場人物の個性の中にかき分けられているんだなァ。

たしかに、恋愛小説なんだけど、なんか今のメディア環境の中にあるものと違うんだよな。恋愛っていっても、ただ「好き」とか「愛してる」っとかじゃないのよ。つまりさ、人はめっちゃ好きな人といるときにも時には打算的に接したり、相手を疑ったり、いろいろ心理は動いてるわけじゃん。そういう人間心理の多面性とか心のひだみたいなものって、このごろテレビでも映画でも、それを扱っているものって全然見たことないわ。出てくる人は平板で、「一次元的」で、ほんと、薄っぺらだよね。そういうのばっか見てると、ほんと、ネット情報だけで人を判断するような、薄っぺらきわまりない人間観や社会観しか持てなくなってくるんだけど、そういうことに気づくチャンスって、現代の生活環境の中には全くない、って断言できるわ。

ぼく自身もそういう情報環境に慣れきってしまっていたんだけど、この夏休みののんびりした時間に、19世紀の小説を読んで、なんか、一気に蒙を啓かれた感じがしたね。

ブルジョワ社会の解剖学として、小説を探求する、というのが僕の興味の出発点なんだけど、そしてその目標はいまだに変わらないんだけど、小説作品を社会の物質的条件の中に還元してとらえようとすればするほど、還元することの不可能な残余の部分が目に付くようになり、その残余の部分のリアリティこそが、作品の価値を左右するものであることが見えてくるわけなんだ。

それにしても、今日のPrincipalの話はつまんなかった。なんの深みもない、なんのリアリティもないスライドの羅列だったね。こんなものは知識でもなんでもない。訴える力もない。

本当に大切なものは、幼稚なおしゃべりではない。俗情に訴える偽の物語でもない。かぎりない無駄なおしゃべりの積み重ねの背後にある、どうしても消去できないリアルなものの一瞬の輝きなんだ。ま、Principal も含めて今の君たちの大部分には到底理解できないだろうけどね。

2016年9月 6日 (火)

ザッハリッヒに見たら、いいんじゃね?

8月に『迷路』について書いたことを思い出してもらいたい。そこで僕は、昭和初年の経済状況について、一方ではブルジョワジーが現代と変わらない豊かな都市生活を享受しており、一方では困窮する農村があり、結果として「くいっぱぐれた農家の次三男」が、昭和維新の旗のもとにクーデタを引き起こした、といったようなことを書いたわけだ。

ところで、最近ユースバルジに関連して、グナル・ハインゾーン『自爆する若者たち ・ 人口学が警告する驚愕の未来』 猪股和夫訳 新潮選書 2008.12 という本を読み始めた。

するとなんだか、物事がずいぶん違って見えてきた。簡単に言っちゃおう。「ユースバルジ」 とは、15歳から25歳未満までの年齢層、とくにその男子、これを著者は「戦闘可能年齢」とも言っている。この辺の人口コーホートが突出した状態にあることを指している。こういう社会では、若者が社会において成功する機会をめぐる競争が劇的に厳しくなる。成功というときに、教育機会とか就職とかそんなことだ。要するに、家族制度にも関係するが、旧来の生業を継承するのが長男だとすれば、それ以外の人間は「過剰」になるのだ。彼らは生活や成功の機会を求めて、どんな危険なことにも取り組むだろう。これが、社会の不安定要因になる、というのだ。端的に言うと、アラブ諸国などで起きているテロは、決して貧困のもたらすものばかりではなくて、むしろ社会が激変し、都市化が進行し食糧生産とか衛生状態とかが向上し、人口が急増することが、社会の不安定化、戦争を引き起こしている、というのである。ここで大事なのは単なる人口増が問題なのではなくて、年齢別人口構成の男性若年層人口が突出することが問題なのである。

この本に挙げられているいろんなデータとか事例を見ていくうちに、こんな風に思えてきたのだ。

なんだ、2.26事件も、結局は同じこと、つまりユースバルジじゃないのか?青年将校の主観的ビジョンにおいては、「農家の娘が売られる」ような農村の窮乏を救済するために、「資本家とそれに結託した政治家を討つ」、とされたわけだけど、実は、そうした青年層は、まさに20世紀初めのグローバル化がもたらした富の移動、つまりは日本資本主義の新たな展開のもとで可能となった社会的基礎的諸条件の「恩恵」によって、軍隊という場所での就業や「出世」の機会を得た青年たちの激烈な政治闘争の延長上のできごとだったのではないか、と、こんな風に見えてきたのだ。実際、当時の人口構成がどんな風だったのかはわからない。だけど、人口学的に「客観的」に眺めてみると、「イデオロギー」的あるいは「心情」的に理解するのとはまた違った見方ができるように思う。

このハインゾーンの本の記述もずいぶん「客観的」だ。君たちにわかりやすいように「客観的」と書いたけど、もっと別の言い方をすると、「ザハリッヒ」Sachlichということになる。「即物的」という意味合いになる。

ドイツ人はSachlich である。だいたいがそんな風である。ベルリンの博物館に行くと、展示もSachlichである。いろんな標本が置いてあって、胎児のアルコール漬けなんかが置いてあって、いろいろな理由で十分に育たなかった「畸形」の標本なんかも無造作に展示してある。Sachlichである。夏場に充分に太陽光を浴びておかないと骨の形成が阻害される。だから人々は日光浴をする。効率よく太陽に当たるためには全裸が望ましい。だからみんな、丸裸で芝生の上に寝ころがっている。Sachlichである。

物に即して考える。これが大事なのだ。ドイツ流なのだ。

ハインゾーンの「ユースバルジ」論、あまり巷では話題にならないけど(その理由は、Sachlich に過ぎることが、日本の読者の好みに合わないからだろう)、結構説明として、納得するけど。そういえばちょっと前に『デフレの正体』 で、著者の藻谷さんが、デフレの背景をデモグラフィックなデータから説明したときも、ぼくには極めて適切な説明に思えたけど、Amazon の書評欄では感情的な反発がけっこう目についたよね。

人口学的事実というのは、そのほかの社会の物質的諸条件、つまり、家族形態とか、保健・衛生状態、都市化の程度、生産・交通 そのほかと密接な関連を持つし、もっと近接してみれば、「性」道徳とか、ふつう我々が「日常生活」と呼んでいるルーティン的な「生の様相」とも密接な関係を持っている社会的事象なんだと思う。そういうところをきちんと「物に即して」とらえることが極めて大切だと思う、そんな今日のHATOであった。

2016年9月 3日 (土)

黄組の健児らよ!

もうすぐ新学期。そしてセンター申し込みも目前だァ。まもなく行われる校内模試では夏休みに頑張った分を存分に披露しろよ・・・・・というわけで、今日土曜日の昼下がり、またまたわけもなく神保町東京堂書店によって、至福の立ち読み時間を味わってきたわけだ。

今日いちばん面白かったのは、三階のコミックコーナーで、赤塚不二夫の60年代の少女コミックなんか含めて、かなり分厚い上下二巻のアンソロジー。タイトルは忘れた。あまり聞かない出版社のもの。ふつうの本屋さんでは扱ってなさそうなもの。このところ『おそ松さん』のブームもあって、ちくま文庫から、昔日の『おそ松君』が文庫化されている。このちくま文庫版でも十分に毒を含んだ面白い作品だが、今日発見した作品集はさらにブラックかつ荒唐無稽で実に面白い。

このほか、吉増剛造の詩の本とか、ふつうの本屋(例えば池袋の三省堂クラスでも)ではおいてない本を次々に手に取ってみれるというのは素晴らしいことである。だから東京堂で本を眺めていると時間がたつのを忘れてしまう。そこで思ったのだが、東京堂くらの大きさと品ぞろえの素晴らしい本屋のビジネスモデルとして、ただ本を売るだけじゃもったいない、という気がしてきたね。むしろ、美術館とか、博物館と一緒で、入場料をとってもいいのではないか、という気がする。それをやっちゃうと、週刊誌とか月刊誌を買うために訪れる人は来なくなっちゃうけど、ぼくみたいに、珍しい本をいろいろ見て、立ち読みして楽しみたい人にとっては、入場料があまり高くなければ、十分いけるように思う。あるいは蔦屋の代官山や、二子玉の「蔦屋家電」のように、スタバの飲食物を購入することを入場料代わりにしつつ、変わった品ぞろえの本屋の中でブラウジングを楽しむというのもありかもしれない。博物館や美術館はただ眺めるだけでも入場料をとるというビジネスモデルが成立するのだから、神保町東京堂クラスの素晴らしい本屋なら、本をブラウジングしたり、場合によっては購入したりできる入場料有料書店というのは十分にありだろう。ただ本を購入するだけなら、アマゾンで十分である。本屋は実物を手に取ってみることができるというめちゃくちゃ大きな付加価値を提供しているわけだから、その対価を(本を販売するという以外の方法によっても)回収すべきなのだと思うな。どうか、東京堂さんが、新しいビジネスモデルを発見して、この素晴らしい空間を維持してくれることを願っています!

というわけで、黄組み健児諸君らとは全然共通点のない、HATOのぶらぶら日記なのであった。

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