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2016年10月

2016年10月26日 (水)

「窮乏の農村」とは何か(続・戦時経済への見通し)

やっほー、黄組健児諸君が中間試験とかと戦っている今日この頃、ぼくは病気と闘っているよ、とかなんとか。

さて、高校図書館で借りたなんでもない(?)歴史記述、『帝国の昭和』が面白い。講談社版 『日本の歴史』の第23巻にあたる、有馬学という人が書いたものだ(2002年10月刊)。

まず面白いのが、冒頭に紹介されている、あの舛添要一氏の父親が1930年に、福岡県若松市(現・北九州市)の市議会議員に立候補したときのポスターだ。このポスターの候補者の名前のところには、ハングルのルビがふられている。(同書22ページ)。じつは、このころ、国内在住の朝鮮人には、選挙権が(地方政治はもちろん、国政レベルでも)与えられていたのであるし、さらに、一年以上の居住という条件で、被選挙権も与えられていたと書かれている。当時の国民意識というものを考えるうえで、実に興味深いエピソードだ。

さて、この本の中ほどに恐慌前後の経済の在り方を示す二つのグラフが提示されている(137ページ~138ページ)。そのグラフの示すところと、それに関する記述をすこし拾ってみよう。

(以下、引用を交えながら)

・・・・世界経済は自由貿易からいわゆるブロック経済的な傾向が支配的になってきた。そのような中で、日本経済は世界に先駆けて景気回復にはいった。恐慌下で世界的に貿易が縮小する中、日本の貿易は1932年には増加に転じている。

グラフをみると、32年から増加に転じたのみならず、33年には輸出入は29年のレベルにもどり、さらにその後、37年には、輸入額はおよそ60億円となり、20年代後半のおよそ30億円の倍ちかい規模にまで拡大しているのだ。

・・・景気回復の条件が、金輸出再禁止とその後の高橋財政であったことは、今日広く承認されている。大蔵大臣高橋是清は、犬養、斎藤、岡田の三代の内閣で大蔵大臣を務めて

いるが、この間に日本経済は、かつてない経済発展を迎えるのである。

・・・・景気回復のきっかけとなったのが1932年の政府の財政支出と輸出の増加であったことに間違いはない。満州事変費、時局キョウ救費をはじめとする政府支出の増大は、鉄鋼、セメント、造船、機械工業などの重工業に需要をもたらし、これらの産業における設備投資が拡大した。

このころの生産の拡大の様子を指数化した、グラフをみると、工業製品の生産量は、1928年を100としたとき36年には400を超えている。鉄鋼生産は同じ8年間に、2,5から3倍の間くらい増加している。

そして、この間におきたもうひとつの変化が、軍需産業を足場に、重化学工業の分野で「新興財閥」が急成長したことだ。

・・・・満州への進出で知られる鮎川義介の日本産業(日産)、野口遵の日本窒素、森のぶてるの昭和電工、大河内正敏の理化学研究所(理研)、中島知久平の中島飛行機である。

ぼくは、日本産業、日本窒素、昭和電工の展開などに特に注目したい。なぜなら、これらが公害発生源企業として展開するからでもあり、戦後政治史においてさまざまな形で登場するからでもある。そもそも窒素産業は、一方では窒素肥料の生産を通じて、農業生産力を飛躍的に向上させる基礎を作るのだが、同時に同じ過程が、爆薬として、戦時に不可欠のものともなるからである。このへんの空中窒素の固定、カーバイド、硫安の生産工程については、後日ちゃんと調べて、ここに書いてみたいと思っている。

今日の話題はもうひとつ別のこと。

この恐慌からの脱出過程で、遅れたのが農業部門であった。

・・・・もともと世界的にも1920年代の後半から農産物の過剰は慢性化していた。日本の場合、植民地(朝鮮)産米の流入によって米価が下落する一方、アメリカを中心とする生糸の価格低下のために繭価も下落していた。・・・・多くの農家は不況の中で借金をせざるを得なかったが、負債は一般に高利であり、戦前の日本農村では、多くの場合、借金は農家没落のはじまりとなった。

こうした「窮乏の農村」、農山漁村経済更生運動、こうした文脈こそ、その後の「農本主義」イデオロギーの温床となっていくのだ。いや、それだけではない、すでに論じてきたような、架構された「都市と農村」の対立の図式、一握りのブルジョワジーへの怨嗟を食料にしてテロリズムのエネルギーが蓄積していく。

つまり言葉を変えれば、農業部門が、この時期の「帝国主義的」、「国家独占資本主義的」に再編していく日本資本主義のいわばさまざまな現実的、イデオロギー的な結節点となっていくのだ。「農村の窮乏」「貧困」にどのように対応するのか、講座派学説のみならず、あらゆる社会的言説がここをめぐって転回を遂げていく。講座派学説は、貧困の原因を「半封建的地主制」にもとめ、「封建制」の廃棄を第一段階とするブルジョワ革命の方向を打ち出す。これが丸山政治学や大塚史学の戦後民主主義イデオロギーを生み出す源となる。

それだけではない、再三述べてきた、「浪漫派的」心情の発生源もまた、このありうべき農村という幻像をめぐって紡ぎだされてくるのだ。

今日は長くなった。ぼくは農業部門の貧困とは、単なる経済的な問題ではない、ということに賛成だ。しかし、それは「封建遺制」のためだ、という考えには与さない。柳田国男が問題としたような、およそ共同体をつくる(吉本流にいえば)共同幻想の次元もふまえつつ、もっと大胆に踏み込んでいえば、この時代において、日本農業の担い手は、まぎれもない「従属階級」(サバルタン)であったという認識をもつことが、全言論の構成を公平に見直すための第一歩となるだろう、という展望を持っている。

サバルタンは自己の表現を持たない。そうであるがゆえに、サバルタンを語ろうとする人々は同時に、あらゆる幻想の杼機となるのである。

2016年10月24日 (月)

間があいた

二週間ばかり、間があいてしまった。この間、何をやっていたかというと、病気をしていたわけだ。金属アレルギーが皮膚に出で、自家感作性の炎症をおこして広がったのである。抗アレルギー薬を飲みながら、ステロイド剤を塗っている。なんだかあまり気分がよくないのである。

さて、間もなく、ぼくが一番気に入っているお祭りが開かれる。それは三社祭ではないし、もちろん浅草サンバカーニバルでもない。 地元自由が丘の「女神祭り」でもないし、尾山台ハッピーロードフェスティバルでもない。そうではなくて、神保町の古本まつりとそれに合わせて開かれる神保町ブックフェスティバルだ。

前にも書いたけど、このごろ古本の世界では、学術書の評価は極めて低い。かつては高価であった文学全集や思想大系の類は、極限まで値下がりしている。ありがたい話である。普段でも安価なのだが、フェスティバルの時期はさらに値引きしてくれる。いいお祭りである。

さて、このところ問題にしている、昭和十年代に日本の思想家、哲学者、作家たちは、日本社会がすごい勢いで戦時体制へ突入していく中で何を考え、何を表現してきたのか、それらが社会の物質的条件とどのような関係を保っているのか。これに対する学習・研究は相変わらず進行中である。

こうやって学習しようとしていると、また、いいタイミングで本が出るものである。

九鬼周造著『人間と実存』が、岩波文庫青版で出ている。(2016年8月刊) もとは、昭和14年(1939年)に出た哲学論文集であり、著者が昭和8年から14年にかけて書いた論文が集められている。

九鬼周造(1888~1941) は、その本の解説にあるように、西田幾多郎より18歳若く、田辺元よりも3歳若い。そして、九鬼の最大の特徴は、彼が長いヨーロッパ留学を経験したことと、その留学期間(1921~1928末)中 に、フランスではベルクソンに学び、フライブルクでフッサールに、マールブルクでハイデガーに学んだということだ。まさにヨーロッパ哲学の大きな転換のその成熟の時に、その最先端の哲学者の教えを当地の人間と同じ言語能力のもとで摂取したことが、大きい。九鬼の歌「君と寝て・・・」にあるように、九鬼は変革期の社会の息吹を、そのミリューにおいて生きたわけである。また、九鬼は日本文化に関する基礎体験を大切に保ったのであり、『『いき』の構造』にみられるように、日本文化の深い本質も大切に知的対象として扱うことができたのである。

その、九鬼の思考のエッセンスが、この『人間と実存』という論説には詰まっている。

九鬼は、西田のさそいで京都に呼ばれ、京都学派の一翼を担うのだが、西田や、同門の和辻に対するレスペクトも忘れずにこの作品に生きている。できる男だけに、その辺は卒がないわけだ。

しかーし、その「そつのなさ」が、致命傷となるかもしれない!  1937年2月『思想』に発表され、この論文集では最後に置かれた『日本的性格』、なる論文こそ、この時代の時代精神と課題を余すことなく伝えているのだ。

ぼくは、九鬼の論文はほんとうに楽しく読める。九鬼が好んで使う『古事記』神代巻の挿話も、本居宣長や賀茂真淵の引用も、素直にうなずける。どうしてなのかな、和辻を読むときの「違和感」が全くないんだ。和辻がもったいぶって「ぼかして」伝えようとしていることより、九鬼がストレートに引用している事柄を、そのものとして受け入れたい気持ちになる。そのうえで、この昭和10年代において、何かを表現しようとする人間にとって、踏まなければならなかった素材が、いかに時代の制約を受けたものであったかも、合わせて思うのだ。

いろんなことが明らかになってきたな。昭和10年代の思考の制約も可能性も。

いまいくつか挙げておきたいこと。

① 西田が戦中に海軍の関係者の要請に対応して「世界史のなんとか」というくだらない論説を発表し、それによって戦時イデオロギーに協力したのではないか、という非難にかんして。

ぼくの答え: 西田を非難するなかれ。西田はすでにその時点で「過去の人」でしかない。西田の絶頂は、まさに『善の研究』(1911) であり、 その著作にこそ、その時代の時代精神が生き生きとして宿り、かつ、その水準をおおきく押し上げる役割を果たしたのであること。その後の西田の著作が、精神の進行を試行的に推し進めていく過程で、その切っ先の集中的表現として「絶対矛盾の自己同一」といった、直接的には理解しがたい表現になったとしても、その切っ先のとこだけを取り上げて、日常言語の枠内で云々すべきではない、と思う。ようするに、1940年代の西田には、時代と切り結ぶ何かを期待するほうが間違っている、といいたい。

② ここから先をいま書いたら、どういうわけか、消えちゃった。いっぱいいいことを書いたのに・・・・

だから次回、付け足すけど、真の昭和10年代イデオロギーの条件は西田なんかいっくらさぐっても無駄だ、ということ。やっぱり今回の論及の最後の奥津城、すなわち和辻「倫理学」に攻め込み、この城の土台を根底からぶっ壊すことなしには、ぼくらは「息をする」こともできないのだと思う。

およそ、『倫理』をまなぼうとする諸君よ、教科『倫理』はすでに破綻した過去のイデオロギーの上に載っているのではないか、という疑いくらいはもってみろよ。あるいは、同じイデオロギーが、ホントに生きているか、ゾンビとして生きているか、はわからないが、一応、「生きている」のだとするならば、そのイデオロギーを乗り越えることが、現状を乗り越えることなのだ、と、そのくらいのことは考えてみようよ。

2016年10月11日 (火)

これからは

「日本思想のロマン主義的転回」ね、子安宣邦がおもわせぶりに言っていたやつ。これってほんとかどうか、確かめたいね。

いくつか展望ができてきたね。横光が『上海』を書いた1930年ころの日本社会にあったと思われる根本的な気分の在り方と、横光が『旅愁』を書いた1940年ころの日本の社会のムードの差をきちんと見る必要がある。

1931年以降の軍国主義的転回みたいなもんを大きな切り返しとして、あるいは1936年の2.26を最終的な、権力抗争の終点として、何かが変わったのだね。それは国家の内務行政的観点としてみれば、かねてから野口悠紀雄が「1940年体制」と呼んでいるような、官僚主導で、「生政治」型の(これは社会保険・厚労行政、食糧管理制度の確立にはっきりみられる)、いわば国家が人間を「どう生かすか」、の観点から人間生活を根本的に掌握する体制へと変貌していくことと関連して、その政策の延長上にある、限りなく労働者生活にプチブルジョワ的な平準化をもたらす、そういう社会の方向性がでてきたわけだ。それをなんと名付けられるか、今の僕にはわからない。そしてこのような内国的な変貌と、満州国をはじめ、日本の植民地主義的グローバル開発路線という外向きの力がともに進行するところで、経済の編制に劇的な変化が生じていたのではないか、(エビデンスはこれから探すとして)、と考えているわけよ。経済の型としては軍事産業という「裾野」のひろい産業を中心に、いわゆる「基幹産業」の重要性が劇的に高まったのよ。

「国家独占資本主義」という荒っぽい言い方があり、そういう言い方が間違っているわけじゃないけど、そういう言い方では汲み尽くすことができないような、社会と人間性の襞にせまる変革が進行したのだと思う。

コミンテルンの32テーゼの展望が間違っていたのではなく、前にも書いたように、日本資本主義の段階的・漸進的な変貌が、例によって、グローバル世界の変貌のスピード感と相まって、劇的に進行していたので32テーゼが前提といていた状況が、40年代までに、変わってしまったのだろうと思うのよ。これらの状況の変化に思想が追い付こうとして追い付けない状況が、40年代思想の前提なんだろう。

「日本思想のロマン主義的転回」があるのかないのか、いずれそれは明らかになるだろうが、その内実をきちんと押さえなければならない。

そこで、ぼくが、次に考えたいと思っているのが、哲学者が何を考えたのかをとらえる作業ね。とりあえずやりやすい西田幾多郎をみてみたいね。

いったい、哲学するってどういうことなのか、西田を通じて考えたいのよ。

で、思うんだけど、哲学者って「男」が多いよね。京都学派の哲学って男ばっかりじゃん?

世界哲学をみても、女の哲学者はきわめて少数だよね?哲学という学問ジャンルて、なんかジェンダー的なバイアスがあるってこと?

ガヤトリ・スピヴァクっていいよね?You tube でも見た。パワフルだ。ハナ・アレント、ジュリア・クリステヴァ、評論家ソンタグ・・・・優れた著作家はいくらもいるけど、「哲学」はなんか「男子」度がたかいなあ。

哲学っていうジャンルそのものの中に、なにか、ソクラテス以来の呪縛があるのかなあ?

なんてことも含めて、西田あたりをケーススタディしたいんだけど、これはちと時間がかかりそうだね。でも西田を少し当たってみれば、「日本思想の転回」の事実があったのかなかったのかがはっきりすると思うし、ずっと気になっている、横光をどうみるかについても、もっとはっきりとみていけるのではないかと思ってる。

黄組の健児諸君、ぼくはそんなことで頭がいっぱいなんだ。君たちは君たちの目標に向けてぜひ頑張ってもらいたい。じゃあね。

2016年10月 9日 (日)

連休なのだが

さて、元来は日常の中で発想したことなどを、「どうせだれも読むことのない」、「石ころ」みたいな電磁的媒体を通じた文章にして残そうというあたりから始まり、ちょっとしゃべった責任上、こんどは「黄組健児諸君」へのメッセージとして利用しようとか欲を出し、ついに書いてるうちに、日本浪漫派だとか「日本いでおろぎー」だとか、語りだして、ドツボにはまってしまった、HATOである。もうそろそろこの流れを断ち切りたい。

「断ち切る」まえに、すこしだけ、ここまで考えてきたことのうち、いくつか訂正とか、考えの修正とかそういうものを明らかにしておこう。

A 横光利一について

『上海』 1932 を読んだ。岩波文庫版は1935年決定版をもとにして刊行されている。

世界植民地主義者の草刈り場となった、中国・上海に取材して書いた小説である。そこには1920年代の資本主義の発展の具体像が、ほとんど、リアルな名称をともなって描き出されている。ここには経済的諸関係という物質的条件の絶対性のもとに、苦しみうごめく諸勢力が、人称的な具体像を通じて描きわけられている。

新感覚派的な描写の実験、映画的な手法とか、そういうことも含まれているが、横光自身が述べているように、「外界を見ること」が、きちんと実現しているのだ。

初版(1932) の序文が収められている。

「五三十事件は大正十四年五月三十日に上海を中心にして起った。中国では毎年この日を民族の紀年日としてメーデー以上の騒ぎをするが、昭和七年の日支事変の遠因もここから端を発している部分が多い。

私がこの作を書こうとした動機は優れた芸術品を書きたいと思ったというよりも、自分の住む惨めな東洋を一度知ってみたいと思う子供っぽい気持ちから筆をとった。しかし、知識ある人々の中で、この五三十事件という重大な事件に興味を持っている人々が少ないばかりか、知っている人々もほとんどないのを知ると、一度はこの事件の性質だけは知っておいて貰わねばならぬと、つい忘れていた青年時代の熱情さえ出てくるのである。」、とある。

ここには「日本イデオロギー」の影はほとんどない。人々の情熱の渦に巻きこまれつつも、時には共産主義の労働運動をすすめる女性の瞳に動かされ、あるいはみじめな生に充足する控えめな性格の女性を求め、ずるい銀行の支店長と対立したり、アジア主義の人々と触れ合ったりと、社会の諸階層の人々の生活が見えてしまうだけに、それらの間で揺れ動かざるを得ないことが示され、主人公のニヒリズムを生み出す道徳的根拠のようなものがきちんと与えられているように思われる。

『旅愁』後半の「トンデモ」日本主義などは、微塵も出てこないのだ。この点は横光を見ていくうえでとても重要だと思う。「横光=日本イデオロギー」 という解釈の線をまずは否定しておきたい。そうしたら、『旅愁』の観念論はどう解釈するのだ?という点に関しては後の課題としたい。

すると「近代の超克」とか、「日本思想のロマン派的転回」というまた別のフレームについても、そこに合わせて横光を理解することからもちょっと距離を置きたくなる。

横光の真骨頂とでもいうべきものは、そういう点にあるのではなくて、ある種の「未完」の問いかけにあるのだと思われる。それについては、いままでも少し触れてきたのだが、のちにまとめて論じてみたい。

B ロマン派的思考について

これ自体がとても面白いテーマだ。前回も少し触れたことを繰り返し、ロマン派的思考を整理してみよう。ロマン派的思考とは

①過去の英雄的な事績・偉業・武勲を想起し、追体験しようとする思考様式であり

②その対象は、人間の歴史事象であるか、そうでなければ神話・自然(人間の認識対象としての自然ではなく、それとは別個の人間的起源を超越した自然を意味する)などが対象となり、歌謡・詩 などの「起源」に関与する原初的言語行為などが、取り上げられる

③ その対象への視線は、「過剰な同一化」欲求によって特徴づけられる。この過剰同一は、「心情的」なものとして理解されている。

以上の3点である。前のブログにあげた、橋川氏の思考も、ほぼここに収まることが理解されよう。総じて、ロマン派的思考様式は過去に特権的な歴史的瞬間を設定し、それに対して自己の無化、対象との同一化をもとめる思考様式なのである。

2016年10月 6日 (木)

どうすることもできない・昭和10年代思想

このところブログを書く推進力になっているのが、野上弥生子の『迷路』を読んだことなのだが、奇しくもというか、『迷路』の冒頭は、東大五月祭で、大衆が漱石の脳を見に行く列を作っているところから始まるのだった。

野上は小説というものを書く上で、やれロマン主義だ、やれ自然主義だ、やれ新感覚派だとかつまらない「意匠」のもとに作り上げるのではなく、漱石の脳が示しているように、だれの目にもあきらかな「物」のように、階級、意識、情念を配置していこうとしているのだ。ちなみに、野上は漱石のいわば弟子としてスタートしたのだから、『迷路』冒頭で五月祭における、脳の展示にひとが群がる様子から始まること自体が、たいへんな批評性を帯びた書き出しなのだと理解してもらいたい。

さて、昭和十年代という時代の相を、その自己表現を通じてみていこうという試みを遂行中なのであるが、その究極が、「日本イデオロギー」である、ということ、しかもその日本イデオロギーは、単に戦時中の一時的なウルトラナショナリズムとしてあるのではなく、日本語で表現する文芸というジャンルのほぼ全体をおおっているガスみたいなものとして、戦中、戦後、そして現在まで継続中のある思想の傾向として、クリティークの対象としてみたいのである。横光の小説が、そういう意図にとって極めて重要だ、という見通しである。

しかしながら、いまその作業を展開しようとして、橋川文三の『日本浪漫派批判』のところでぐずぐずしているところである。

日本浪漫派が橋川の世代をとらえた理由は何か。それは、子安宣邦の最近の著作に端的な答えがある。ずばり、『「近代の超克」とは何か』 2008.6 の第五章、「詩は世界秩序を変革する」の中にいくつも面白い指摘がある。

この冒頭で、子安は和辻哲郎『人間の学としての倫理学』にふれて、「1930年代日本の学問、ことに文化学はいわばロマン主義的転回を通じて」 成立するのではないか、という指摘をしている。ここで子安は、西田学派の著作家など広い範囲でおきたひとつの傾向を指摘しているのだ。かりに 子安の言うように、「ロマン主義的転回」がこの時期の思想の特徴であるなら、それこそが、「日本イデオロギー」を成り立たせている一つの要素である、と言ってもいいだろう。

しかしながら同じ「ロマン主義」的傾向のなかで、もっとも先鋭だったのが保田與重郎だったのであり、保田は1930年代の閉塞的な状況を切り開く「政治的」な武器として、「詩」を持ち出したわけである。そして、子安の指摘によれば、保田の同時代認識は、ふつうは保田とは全く正反対の立場であるマルクス主義、とくに講座派の、コミンテルンの32テーゼと同じ現状認識であった、というのである。すなわち日本資本主義の「半封建的性格」のもとで、農村は「辛苦の茅屋」となり、高率小作料と半封建的な軛のもとにある。保田の浪漫派的革命とは、自然主義を克服することなのである。なぜかというと、自然主義とは、資本主義のもとで疲弊する農村や人間の自由を阻害する封建的強制を、肯定するだけで、それが現状肯定でしかないがゆえに、閉塞的な時代に対してコンフォーミズムにしかなっていないからである。

保田の戦前の著作『近代の終焉』、「自然主義的文化感覚の否定のために」から子安が引用している保田の文章はこうした点をとてもよく伝えている。ようするに自然主義とは、日本社会の悲惨をあげつらうことで、「後進国日本の確認に安心を味わって」いるだけで、自己虐待の満足を得ているだけだ、と。要するに、日露戦後以来の日本人は、知的退嬰の状態にあるのだ、と。ではどうしたらいいか、そこから「ロマン的」思考様式が要請されてくる、保田はその根本に「詩」をおくのだが、その「詩」の典型こそが、あのヤマトタケルが己の死を意識して、望郷の詩をうたいだした歴史的瞬間にあるのだ。「詩=歌」を通じて、「偉業」をなした英雄の事業と自己を同一視する視線こそ、ロマン派的思考様式のカギなのである。前回のブログの最後に述べた「視線」とはそんなことでもあるのだ。

ただし、ロマンティクの解剖をしていくと、横光の「日本主義」はそこからかなりずれているのがわかる。文化学の「日本的転回」、「近代の超克」問題、『旅愁』にみる日欧文化比較論、これらの間の連関の糸をもうすこしはっきりさせていきたい。

その一方、だいぶ話が専門的になってきて、本来のこのブログが向けられている黄組健児諸君がいだいている問題関心とは離れてきてしまった。どうしたらいいかわからない。黄組健児諸君にうけそうな話題も書きたいし、ネタもいくつもあるのだが、ブログを書きだすと、もうこの問題しか書けなくなってしまう。これはどうすることもできないのだ。

2016年10月 4日 (火)

くさいものに集まる

なまじ横光なんか読んじゃったので、やばいところに吸い寄せられている私。今日、本屋で本をみてたら、似たようなくさいものに集まってきている連中がいくらもいるわけだ。

鈴木貞美『近代の超克』という本が2015年に出てるじゃないか! なんと『横光利一と近代の超克』なんてタイトルの本まで、同じ2015年に出ているではないか!

誤解の無いようにみんなに言っておきたいのよ。僕は決してその「くさい」とこに行きたいわけじゃないの。結論から先に提示したいんだけど、ぼくが生涯をかけて戦っているのは、あらゆる意味における「ロマン主義」なのだよ。

ロマンティークはいたるところに潜んでいる学校の教師なんていうのは大部分がロマンティカー(ロマンティックする人の意) なんだよ。この子は将来どんな大人になるのかなー とか素朴に思っちゃっているような連中は本質的にロマンティカーなのよ。東京ロマンティカ。

生徒のことを「子供たち」なんて言ってる段階ですでにロマんティクしてるわけ。「ブンガク」とか特別視してる段階で、すでに「お前はロマンティク」だ、と言ってやりたいわけ。

「詩人」とかいうと、すぐにロマンティックだと思うわけだろ? それがバカだってこと。ロマンティックになった段階でお前には詩の一行も書けないっちゅうの!

このクソ簡単なことがわからない連中がいっぱいいるわけなので、なんとかしてこのクソ簡単なことを言わなけりゃいけないといいうのが、私の「シメイ」なのよ。

その強い味方が、野上弥生子なわけ。野上の『迷路』は、昭和十年代の社会の物質的な条件を「小説」という枠組みを利用しながら、あるいは小説の登場人物の意識を介在させながら、あらゆる情緒性、まあ、今日の言い方でいけば「ロマンティシズム」を排して、解き明かそうとしているわけ。まさに実験室で科学者が自然界の出来事を、ある条件のもとで再現して見せるように、「小説」という限られた条件の中で、やっているわけよ。

こういう冷めた眼が好きなんだな。一歩離れて観察する余裕がほしいのよ。

で、横光と言い、「近代の超克」といい、みんな「くさい」んだけど、その臭さのもとを、きちんと批判したいわけね。ま、鈴木貞美なんて人もそういう興味でやってるんだと思うけどね。

ただ、ほんとヤバイ感じはある。「クサイ」ところにひきこまれそうになるわけ。たとえば橋川文三。その「あとがき」見てみな。

(以下、引用)

・・・そのようなものとしての日本ロマン派は、私たちにまず何を表象させるのか?私の体験に限っていえばそれは、

命の、全けむ人は、畳菰、平群の山の イノチノマタケムヒトハタタミコモヘグリノヤマノ

隠白トウ(木へんに壽)(熊樫) が葉を、チョウ華(うず)に挿せ、その子

クマカシガハオウズニサセソノコ

というパセティクな感情の追憶にほかならない。それは、私たちがひたすらに「死」を思った時代の感情として、そのまま日本ロマン派のイメージを集約している。・・・・

・・・昭和18年秋、「学徒出陣」の臨時徴兵検査のために中国の郷里に帰る途中、奈良から法隆寺へ、それから平群の田舎道を生駒へと抜けたとき、私はただ、平群という名のひびきと、その地の「くまがし」のおもかげに心を惹かれたのであった。

(以上、引用終り)

念のため、日本思想大系『古事記』より、その前後の様子をみる

・・・・三重の国についたとき、ミコトは「足が三つにまがっちゃったみたいに疲れちゃった。」そこからノボノに行って、こう歌った。「ヤマトハクニノマホロバ・・・大和は国の中で高く秀でているところ、重なり合った青い垣、山々の中にこもっている大和は美しい」こう歌ってからさらに「命の完全な人はへぐりの山の大きなカシの木の葉を、うずとして、髪にさせ、その子よ」、これは望郷歌である。・・・・・

私見では、ここにに示された「情動」と、その発現の源こそが、ロマティク的思考様式とその問題性を集約的に示している。この橋川の切実なイメージこそ、私たちが過去に体験し、これからも体験せざるを得ない、ある強い「情緒」の発現の機構なのだ。

さらに一歩踏み込んでいえば、ここで橋川が「平群の山」に見たものは、そのまんま、ハイデガーがヘルダーリンの詩の中にみた「蒼穹」に変換できることだと思う。つまり、ここにはほとんど「普遍的」と言ってもいいようなロマンティークの思考様式があるのだ。

橋川の本に関してamazonの書評子がいみじくも述べているように、この橋川の「回想」を通して、私たちは「電撃のように」橋川の全思想を理解して・・・・・しまいそうになるのである。そしてこの点にこそ「ロマン派」の、いやロマン派だけでない、あらゆる「日本イデオロギー」の根源的な機構が存在する。

だから「クサイ」のだ。だから「アブナイ」のである。

これらの思考様式の解剖は、後日にまとめて話すものとする。ただひとことだけ、ここに眺められた「平群の山」とは、前回のブログで、トンネルをぬけた汽車の窓から滝井孝作が眺めた「山際の小径」と同じものだ、ということだ。

2016年10月 3日 (月)

風景としての郷土

前回の論考で意識していたのは、農本思想(たとえば権藤成卿の」「社稷」とか)という思想の特徴的な「視線」だ。橋川文三が、小林秀雄の「故郷を失った文学」1933 を通じて正しく語っているように、そこで「眺められた」郷里の姿、というのは、「トンネルを抜けたとき列車の窓からチラリと見えた山際の小径」だったり、権藤の「疲弊せる農村」だったりする。つまり、今では都市生活を送る人間、まさに列車とかトンネルという舞台装置の上で生活している都市生活者の「視線」の中で再構成された「農村」とか「郷里」というものが、何らかの強い情動を引き起こす媒体として利用されているのだ。それを眺めている「主体」は列車に乗っていて、超スピードで運ばれていくのであり、その話者の現在、それは近代資本による開発の諸関係の上にしか存在しないのだ。要するに彼らにとってのなんらかの情動の発現する源としての「農村」とは、近代人の視線の中に再構成されたものでしかない。それなのに不思議なことに、多くが、そのような二次的構成物としての「農村」をあたかも「自然的」なものであるかのように自らの議論の出発点においているのである。

この関係のおかしさというものをまずは意識しなければいけないのである。

だから 「自然村的共同体秩序」が「国体の最終的細胞」(丸山真男)であったことは一度もなく、それは二重の幻想の向こうに構築された、近代的主体の作り出した擬イデオロギーでしかない。こうした虚偽意識をいかほど論じてもあまり意味はないのだと思う。前回の議論はそんなことを言おうとしたのである。

横光・保田・1940年代

自分で書いたものを読んでいてつくづく思うのは、昭和10年代の思想について、ぼくが持っている大きな枠組み、理論的見通しのようなものをもう少しきちんとしないといけない、ということだな。そのことと、たとえば前回の橋川「浪漫派」論に感じる「ずれ」には深い関係がある。日本浪漫派のど真ん中の人物として、保田與重郎という作家がいる。この人については、橋川がしきりに論じている。まあたまたまなんだけど、その人の『日本に祈る』という本がうちにあったので、ぱらぱらとページをめくって拾い読みしてたら、なんと!保田が横光利一の死の知らせをきいて、「暗然たるものを味わった」上で書いた「最後の一人」という論考がはいっているではないか!読んでみると、どうやら保田によれば、横光は「預言者的詩人」であって、詩人には二つのタイプがあり、神をたたえる詩人と人をたたえる詩人がいるのだが、横光はその後者のほうだ、というのである。イロニーを体現する詩人の悲劇を生きた人だ、というのである。めちゃほめてるみたいに感じるかもしれないが、保田は、横光に対して一定の留保を置いている。それは、あくまで「時宜に感じて」書いたのみだ、というのである。

この辺も掘り起こしたいところだが、今日書こうと思ったのはそのことではない。

橋川浪漫派批判の中でしきりに説かれていた、浪漫派の「農本主義的」起源の件である。「日本主義イデオロギー」が農業と結びつくのはそんなにおかしくはない。昭和十年代に資本主義的な再生産構造が確立し、都市における労働者的核家族の再生産が始まり、彼らが都市のプチブルジョワ生活様式の体現者となっていくわけなのだが、その一方で日本全体でみれば農業就業者の数はまだまだ多く、都市労働者に析出した個人も、一方では「郷里の生活」という形で農業生活を営む一世代前の生活様式の記憶を色濃くもっているわけなのだから、「日本主義」と農業の結びつきは決しておかしくもなんともないのである。ましてやそれが彼らの親の世代の生活であるならば、故郷をすてて都市にでてきた次世代の若者が、なんらかのノスタルジーや正当化の対象として、農業生活を美化してとらえても何の不思議もないと思う。

ただ、今日の最初のところにも書いたように、日本経済の現実はすでに資本主義的に転回しているのであって、主たる生産様式の主たる部分は資本主義であり、農業部門も資本の分け前をもらう形で従属的な生産様式へと、その地位を変えているわけである。だとすると、その時点で、「農本的」イデオロギーの持つ、政治的意味は、何というか、欺瞞的というか、極めてミスリーディングなものだと言えるのだと思う。もっと、手っ取りばよく言うと、この時期を何らかの作品に書くときに、もっとも社会の物質的条件に近い、「真の」社会関係を描く場所は、都市ブルジョワの社会諸関係の中にあるのだ、ということである。

そのような場所で共有される「日本イデオロギー」こそが重要だ、と思うからこそ、かねてより、『旅愁』に着目しているのである。そうしてみるときに、保田がいろいろ難癖をつけながらも、横光の死にあたって、「暗然」としたり、「時宜に感じたり」しているのだ、と見なければならない。この場面では、保田が実際に奈良のあたりで農業をやってるなんて言うのはなんの意味もない。それは都市ブルジョワのお遊び的農業体験でしかないのだ。

要するに、橋川が浪漫派の「農本的」側面に引っ張られるのはダメだ、と言いたいのである

浪漫派は本質的に都市型プチブルジョワの内向的イデオロギーだであり、それは日本資本主義が1940年代におかれた段階を戯画的に表示しているのだとみなければならない。

急速に変貌を遂げていく日本資本主義の段階的漸次的進行のそれぞれの局面で、世代とか記憶とか、古代幻想とかそういった人間意識の諸相をうまく利用しながら、個々人の意識とは全く異なる、厳密な近代が貫徹していくのだと思う。

2016年10月 2日 (日)

夏から秋へ、荷風、橋川文三など

いやー、暑さがぶり返してきたね。今年の9月は日照も短く、秋の訪れが早い感じがしてたけど、やっぱりそれは一時的なものだった。ここ例年夏の暑さが9月末から10月まで続くような傾向があるけど、ことしも例外ではなかったわけだ。

夏から秋へ、という変化を情動を伴って経験する場所や機会が今の都市生活者にはほとんどないというのは、実になさけないことである。暑い9月のイメージは僕の中ではSeptember Moon がどうしたという歌とともにある。暑く青い空に高く半月がかかっているというイメージだ。

話題を変えよう。

岩波文庫版『ふらんす物語』(永井荷風)の冒頭のところ(「秋のちまた」)で、アメリカでの生活を終え、フランスに移ってきた荷風が、フランスの秋の訪れ方について、とても正確で美しい描写をしている。高緯度地方に特有の陽射しのかかりかた、夏から秋へという季節のうつろいが正確無比に叙述されている。そして季節の移ろいに寄り添うように巷にともる灯の中でうつろう都市生活者のようす。それを媒介物なしに直接体験する主人公の姿が濃密に描かれる。荷風が体験したフランスは明治30年代末、西暦では20世紀の最初の10年の半ばころである。

同じようにフランスを論じつつも、それは1930年代に横光が旅行者の視線であれこれ論じたものとは全くことなる、フランス体験だ。

荷風にとっては、自分が帰るべき「日本」というものがそもそも前提になかったわけで、生活のすべてがアメリカに、あるいはフランスにあった。これに対してと言ったらいいのか、横光の生活の基本ははあくまで日本にあり、横光の視線は、つねに日仏あるいは日欧文化比較という視線に貫かれている。

この二人にそもそも個人の資質のちがいがあることは当然として、ここで僕が示したいのは、仮にそのような個人的な条件を抜きにして、ふたりの対応の違いを生み出すような社会的な変化が、日本にあるいはフランスにあったのか、という問いなのである。

結論ははっきりしていて、都市のブルジョワジーあるいはプチブルジョワジーの生活が安定的に再生産されるようになる大正から昭和にかけての日本資本主義の飛躍的発展が背後にあるのだということだ。国家意識というものが、明治期ナショナリズムのような、明白に自我の政治的表出であるような時代が過ぎ、自我の文化的表出が結果としてナショナルなものに付随するような、そういう状況へと変わっていく、それがあるのだと思う。

この土曜日に橋川文三の『日本浪漫派批判序説』(初版は1960.2)を読んだ。僕は学生だった1970年代半ば、橋川氏が駿河台の明治大学で政治思想の講義をしているのを何回か聴講しに行ったことがある。この『序説』は政治学と文学・社会学の中間にあるような優れたというか、橋川さんのハートがこもった力のはいった作品でもあるし、丸山学派の中でもいわば心情的に右派とでもいえるような、難しいところを論じているものなんだ。それで今回僕がこれを読んだというのは、昭和10年代にリアルタイムで書かれた同時代文学の記述をとおして、つまり『迷路』の前半とか『旅愁』の』前半とかのことなんだけど、そこにあらわれた登場人物あるいは作者の社会意識のありようをとらえてみたいということがあり、それをもうすこし大きな文脈から見ていこうとすると、いわゆる日本浪漫派なんかもちゃんと見たほうがいかな、と思って読んだわけだ。ただ、読後感としては、今の自分の問題意識と橋川さんの問題意識にはかなりずれがあって、あんまりしっくりこなかった。

ぼくが問題にしたいのは、なんか大文字の「日本」とか「すめらみこと」とか、といった根拠なきロマンティシズムではなくて、もう少しおずおずとした、都市のプチブルジョワにふさわしい世俗性や一定程度の論理性をともなった、(小文字の?)「ニホン」の表出なのである。

その手の小さな「ニホンロン」と、排外主義的デマゴーグが夢想する「ニホン」は別物なのだが、何か隠れた水路で両者がつながっているように思えてならないわけだ。これはナショナリズム云々といった話題ともチト異なるかも。かつて吉本隆明は、日本のナショナリズムを論じて、「井の中の蛙」は、自分が井の中にいることを知っている限り、世界とつながっている、といったようなことを述べていたと思うが、そこんところ、井の中の蛙の自己認識の態様のようなものの中に、ウルトラ・ナショナルなものと小文字の「ニホン」をつないでる何かがあるんじゃないか、と思っている。

今後僕の議論は、戦中の人文学の帰結たる「近代の超克」論や、西田学のほうに寄せていきたいのだが、ま、その前にまだまだ迂路がありそうだ。

ま、特に何にもまとまるところはないんだけど、とりあえず書いてみた。

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