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2016年12月

2016年12月21日 (水)

なんとなく

前回セガンティーニやら象徴主義やらとまたまた新しい課題を設定して、先を急ごうとしたために、かえって書けなくなってしまった。たまたま二学期末の試験や成績処理と重なっただけのことなんだけどね。

今日はちょっと流れとは関係ない話題。

これからの冬場、近くの山をハイキングするつもりで先日トレッキング靴を買ったことを書いたけど、こんどはお湯を沸かす道具もほしくなって、PRI・・・という会社のコッヘルセットをamaz・・・で注文したんだな。それがおとといのこと。通常配送なんだけど、昨日には届いてた。昨日の夜開けてみたら、それがなんとびっくり、鍋の取っ手がついていないという欠陥品だったのよ。それで早速、その旨をアカウントサービスで連絡したんだ。それがきのうの夜、しかもだいぶ遅い時間だったのよ。そしたら、なんとびっくり、今朝にはもうその代わりの品が届いたんだ。

いやーびっくりしたね。そのスピード感。欠陥品が届いたのは遺憾だけど、そのあとの対応の早いことに、ほんと驚いたわ。

ama・・・も、「学校」も、何らかのサービスを提供する点では一緒だとする。そうした場合、サービスを受ける側の要求に対して、ぼくらはこういう素早い、対応をできているのか、と問いたくなるわけよ。もちろん答えは、「できてないな」ということ。

概して、公共部門とかのサービスの提供はスピード感という点でも、その質という点でもすごく劣っていると思う。公共部門だけではない。民間でも、ama・・・のような驚くべきスピードでの対応はなかなか難しいだろう。

欠陥品を売ってしまった、といったような事故的な出来事が起きたときに、「おもてなし」とか何とかの精神論ではなくて、「システム的に」スピード対応できるようになっていなければいけないんだな。そういうトータルのシステム力みたいなものが、これからの組織には要求されるようになるんだろうな、なんて思った出来事でした。

じゃ、みんな、頑張ってね。

2016年12月12日 (月)

そういうわけで

次の課題は、ロマンティク=シンボリズム=ナショナリズムを通底しているところの「政治的情念開発機械」の設計図、エネルギ―装置、これらを明らかにしてくことだろう。

だが、その前に予備的作業として、19世紀末から20世紀にかけての「象徴主義」絵画の表象とその意味の関連を見ていくことにしよう。

前回のブログでは、ついつい「情念」という言葉を多用してしまったが、大切なのは表象・記号の「意味」なんだね。「意味」の構成要素が情念なのであって、情念なしには意味が生じにくい、という判断が、常に私の中にあるわけだ。

日本のロマン主義を見ていくうえで、伊東静雄という重要な作家がいる。伊東静雄1906-53 が残した詩作品の数はせいぜい百いくつということで、残したものの数はすくないけれど、いくつかはあまりにも「鮮烈」である。大江健三郎が、伊東の詩を自分勝手に解釈してしまったことを述べていた*。そのうえで、大江はそういう自分なりの解釈をキープしていくというような意味のことを言っている。言語表現においてもこのように、もとの文脈から離れた解釈を通じて情動を生み出すことが起こるのであり、またそれこそがロマンティカーの狙いであり、意義なのでもある。

注: 『大江健三郎自選短編集』 岩波文庫 2014 の最後に置かれた作品「火をめぐらす鳥」 この掌編をみると、人が評価する大江の像とはだいぶ異なる、根源的なロマンティカーの姿を見て取ることができると思う。

その伊東静雄が、詩の着想を得たのはイタリアのセガンティーニという画家を通じてであり、セガンティーニには「象徴主義」的な手法が強く表れている。この辺をとっかかりとしながら、日本昭和10年代思想の解剖をさらに遂行していこう。

 

ついでに

なんだかおかしなことになってきたのだ。エリアーデとかシンボルとかについてなんか書こうと思ってAmazon を見ていると、やっぱり、そのシンボルの扱い方でC.G.ユンクが出てくるんだな。

それで、うちにあったユンクの The Red Book Liber Novus  ed. Sonu Shamadasani , NORTON 2009 ,

を開いてみたり、人類学関係のシンボリズム研究のものをぱらぱら見たりしたんだけど、なんかすっきりしない。

シンボルを使うコミュニケーションというのは、どうしてもそれによって共同体の紐帯を強化しようとする面が強くでてくるよね。「共同体」というのが成立するのは、その共同体の外部が存在する時で、ようするに簡単に言っちゃうと、仲間内の言語をまもろうとすることなんだな。言語と言っても、ロゴス的というより、パトス的、ようするにシンボル的コミュニケーションは、それを使う人たちの間の「共感」とか、気分の共有ということが目指されているわけだ。その分、共同体の外部の人にとってはわかりにくくなってくる。

たとえば初期のキリスト教団のシンボルにおいては、キリストの最初の二文字をあらわすカイとローの二つのギリシャ文字を組み合わせた図柄が使われたり、六つのスポークを持つ円にみえるものは、実は イエス・キリストの I と X の組み合わせだったりする。

初期の仏教では「法輪を転ずる」 仏法(=真理)はまさに、車輪として表象されるのだが、そのダルマチャクラの八本の輻(「や」、スポークのこと) は、「八聖道」をあらわすなどと考えられたりするわけだ。

さっきも書いたように、こうしたシンボリズムは、つねに集団・共同体が、自分たちを外部(敵)と区別する「内輪」の論理によって貫かれている。

そして、多くの場合、人々はそういうシンボルをあやつる儀礼的なしぐさとともに、シンボルによって体現されたエモーショナルなものを共有し、一体感を得るわけだ。

ナチスの集会において、儀礼を通じてスヴァスティカ記号がもった意味合いを考えてみれば、その極端な例がわかるだろう。

簡単に言ってしまえば、シンボル的思考は、一方では極めて複雑で深淵な意味合いを単純な記号に負わせることができる一方、エモーショナルなものを通じた共同体の同化と排除を作り出す政治的役割も演じることができるのだ。

宗教研究においては、こうしたシンボルの意味や機能を見ることがとても重要になることは間違いない。

ところでシンボル論の難しさは、その先にある。シンボルを通じて人は深いところにある情緒や情念に気づかされるのだが、それをロゴス化することは、そこでは求められない。シンボル的思考とは、まずはその隠れた情念を開発するところに特徴があるのだ。

シンボルをシンボルとして認めることのなかには、そのような情念共同体に参加することが含まれてきてしまうのではなかろうか? シンボル論はとてもリスキーな作業ではないのだろうか?

人類学者が消えゆく民俗の中にシンボル論でわけいることと、精神分析学者が、シンボルを通じて、「集合的無意識」にふみこんでいくこととは、そのおかれている社会的政治的文脈が全く異なるのではないだろうか? 分析家が被験者の病理を理解するためという原則を超えて、シンボリズムを一般化することは危険がともなうのではなかろうか?

それにしても、なんだかんだ言って、

「なんだよこのブログのタイトルに「六芒星」が含まれているのは何のシンボルなんだよー」

とか、からまれても困る。 困りついでに、喉は多少良くなったけど、また頭痛とくらくらに逆戻りのHATOの今日この頃なのであった。

 

2016年12月 9日 (金)

そろそろ(2)エリアーデについて

エリアーデMircea Eliade 1907-1986 は、ルーマニア生まれの宗教学者で『ヨガ』1951, 『シャマニズム』1954,はじめ、多数の著作がある。そのエリアーデには学者としての一面のほかに、小説家としての一面があり、小説の方では学問的著作では埋めつくせない領域を問題にしている。エリアーデは長くインドに暮らし、インド思想を内側から理解できる人だと思っている。そのエリアーデが書いた小説、『ホーニヒベルガ―教授の秘密』について、急に私の連想が及んだ、というのは、要するに、前回の項で書いたように、たとえばロマンティクの思考様式が「象徴」を介した特殊な世界とのつながりを開示する時に、なんとも言えない共感覚みたいなものが示唆されることと関係がある。要するにブルックナーを聞くと、タイトルがそうだからということではなくて、単純かつ端的に「ロマンティクだなァ」、と思うみたいに、エリアーデの小説を読むと、「これこそインドだァ」という感じが伝わってくるわけだ。

『・・・ の秘密』という小説(と、同じ単行本に収められている『セランポーレの夜』もそうなのだが)そのものが、そのような効果を狙っているかのようなのだ。

だからそこには、ほとんど「オリエンタリズム」的としか思えないようなものが描かれているともいえるかもしれない。WIKIの記述にはそんな含みがあった。私はそのことを否定するつもりはない。およそ「ロマンティク」な思考様式においては、「共感覚」とみせかけ、実は己の自己像を他者に投影しただけの粗雑な記述しかないことは全く常態と言ってもよいものであるから。

私が一方でその小説を非常に面白く思い、ちょっとそういう判断で切り捨てちゃうのを保留したいように思うのは、さっきも書いたように、エリアーデは学者としての記述に「オリエンタリズム」を持ち込まないことと関係がある。同じ判断は小説にも十分に反映されていると思われるからだ。その一方、心に持っていても学問的著作には表せない部分が小説を通じてあらわされているのであって、そのぎりぎりのところで「オリエンタリズム」なのはしかたないように思える。

あー話がこんがらかってきたぞ。なんだか私は「ロマンティク」を批判するとか「オリエンタリズム」云々言ってるわりにはロマンティクだな、と言われてしまいそうだ。どうしてそうなってしまうのか、わかっているつもりなのだが・・・・。

そして、ここでは、エリアーデの小説を枕にして、「インド的」なるものを語りたい誘惑にもかられるのだが・・・。

全然本文と関係ないけど、きのう初めてPPAPみたわ!そしてしばしYouTubeにはまった。

そろそろ

このブログの読者であろう高校三年の諸君も受験に突入し、それぞれの課題にチャレンジする時となった。

私は、といえば先々週から二週間ずっと体調が悪く、ついにここ2,3日は、声が出なくなった。

さて、そんななか、学校に向かう京浜東北線が品川から田町あたりに差し掛かったっ時、ふと、頭の中でブルックナーが鳴った。「鳴った」といっても、音がそんなには聞こえたわけではない。ブルックナーを聞いた時の「心的状態」の記憶がよみがえったのである。それは「音」によって構成されているというより、なにかもやもやとした心の状態というか、青空の見え方というか、私の意識が世界を受容するときの何か「くせ」のある様態のようなものだ。

何か特徴のある作品は常にある種特別な「心的状態」を喚起するのであって、その記憶もまた保持されていくのである。その記憶のありようというのは、ちょうど、夜寝ているときに、夢の中で、「ああこの夢は前にも見た夢だな」と考えているような、そういう種類の記憶なのである。つまり、目覚めた意識の中の記憶ではなく、眠りの中でのみ保持されている記憶なのであり、それはある種の心的状態なのであって、まれに目覚めているときに、「ああこれは夢の中の夢の記憶とおなじだな」と意識することもあるというたぐいのものだ。

そこでもうひとつ指摘したいのは、私たちの世界、すなわち実在は私たちにそのような、暗号めいた信号をおくって、意識の特定の層に刺激を与え続けているのだろう、ということだ。それが、ふとした時に日常的な意識の間隙をぬうように、私の意識に降りてくるのだ。

この欄でずっと問題化している、「ロマンティック」というものは、意識のそのような領域にかかわっているのであって、それは私の意識が世界と取り結ぶ特別の関係、場合によっては「秘密めいた」とでも言ったらいいような特別な関係の領域でもある。これを他人にわかるように表現する、というのはすごい難しいのだが、「象徴」といったようなものが、「ロマンティック」な世界と自我の関係をあらわすのに最も適したものなのだ。

「象徴」という言葉は「日本国憲法」でも使われているし、すごいわかりやすい言葉のようにも感じるかもしれないが、意外と含蓄があって難しい言葉だ。カール・グスタフ・ユンクの仕事では「象徴」が大きな役割を果たしているし、実際、彼は『赤い本』という本の中で、そのような象徴を介した自我意識を絵とか特別な文字を使って何とか明らかにしようとしている。そうした他者の象徴体験、意識というものが理解可能なものなのかどうか、なんとも言えない。この辺の理解可能なような、そうでないような領域において、他者と私を架橋するものが、「ロマンティック」なのである。

もとにもどるが、それは私と世界との特別な関係であって、そのような関係を他者が私と同じように持っているとは到底思えないのだが、ただ、私は他者の生み出す表象を通じて、他者と世界との関係と同質のものに私も参与しているような気になるのである。

実は、さきほど「ブルックナー」が鳴ったように感じたときに、稲妻のような意識で私の中に生まれたのは、「象徴」によって示される世界の「実在性」の確信のようなものであり、それを示す作品として、突然にミルチャ・エリアーデの『ホーニヒベルガ―博士の秘密』を想起したのである。(次回に続く)

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