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2017年1月

2017年1月30日 (月)

いままた家にいるわけなのだが

この頃は健児諸君にも会ってないので、ますますログる意欲がわかない。というか先週はなぜか風邪をひいていたのだ。先週の月、火あたりは鼻水出まくりで寒くてほんとに困ったわ。

そんな中アップリンクで中国の映画とか見た。その話は後日。

先々週の土曜日、そんときもウルトラ級に寒かったが、神保町田村書店の店先で東洋文庫『妙貞問答』、200円で売ってるの購入した。

『妙貞問答』は、羅山文集によってその名が伝えられ、大正7年に坂本広太郎が神宮文庫版を紹介、その後新村出、村岡典嗣、姉崎正治などの研究により、その意義が明らかにされてきた。著者は不干斉ハビアンFucan Fabian 、成立は慶長10年(1605)とされている。

これが東洋文庫版では、『南蛮寺興廃記』他のキリシタン関連文献とともに一冊になっている。

中身はというと、幽貞という女性が妙秀という女性から尋ねられるままに、仏、儒、神道の説くところを説明し、最後に、貴理志端の教えをギリシャ哲学的な教義論の助けを借りながら説明していくというものだ。

マテリヤ・プリマとか、アニマ・ベジタチヴァ、アニマ・センシチヴァ、アニマ・ラシオナルの区別とか、創造主を考えなければいけないことなど、まことに筋が通った説明になっている。

ハビアンという人は、永禄8年1565 加賀の生まれ、京都で禅宗寺院に学び、その後天正11年1583にキリシタンになったとされる。1586年ころにイエズス会に入り長崎のコレジョに入学、神学を学び、1593年正規のイルマンになった。イルマンとは助修士の意で、司祭になるとパードレとなる。 (東洋文庫解説による)

『妙貞問答』を読んで、面白いと思ったのは、何と言っても、ここで展開されている議論が、「開明的」とでもいうのかな、すごくすっきりしていることね。たとえば、次のように。

( 以下、引用)

(幽貞)

・・・・それですから、神道の内密の教えは、ただこの夫婦の交わりの陰陽の道に極まるのです。神前に出入りするところの鳥居の姿、しめなわ、巫の袂に鳴る鈴、青白の御幣をはじめ、どれが陰陽の表徴でないものがありましょうか。そういうわけで、これは貴くないこと、申せばけがらわしいことなのでございます。・・・・すべてどれも秘事と言って隠すほどのことには「深い意味のある」ものはないのでございますよ。はっきりと見えるようにするか、言うとすると、まあ大したことはないと人が思うので、隠すのでございます。・・・・・・

(妙秀)

・・・・本当に、仏法、神道の趣旨を今こそよく理解しました。仏者の空生空滅などと言ってすべてのものを無主無我と結論付けるなど問題にも値しない誤りであり、神道などでは陰陽のこと以外は何も申されず、理にくらくておかしいことでございます。あなたも言われるように、無心無念の陰(キリシタンの)ご門弟になりましょう。

概して物体と精神の区別、事物の第一原因としての神(DSデウス)、というのが議論の導きの糸になっているのだ。

16世紀の後半というのは、キリスト教の伝来とセットになってヨーロッパ文化の考え方が入ってきて、その発想が人々に広がりつつあったんだね。開明的な大名たちだけでなく、堺や長崎の商人たちにもそういうのが伝わっていって、日本という島国の小ささが意識される時代に入りつつあったのだな。この合理主義の流れがオブスキュランティズムにその場所をゆずるようになるのはどうしてなのだろうね。

2017年1月21日 (土)

またも学校にいるのだが

きのう渋谷ユーロスペースで、「イスラム映画祭2」、最終日に初めて行ってみた。イラン映画『マリアの息子』1999とエジプト映画『敷物と掛布』2013の二本をみた。

このごろあまり映画を見てないせいか、何見ても面白いわ。イラン映画のほうは1999年という製作年を反映しているのか、いかにも牧歌的な映画で、古き良き時代のイラン映画そのものだね。この映画ではカトリックとイスラム信仰が全く緊張感なく共存している田舎の村の生活が描かれている。冒頭のところ、田舎の教会のたてもののところで、青空を背景に子供がコーランを朗誦する声を聴いただけで感動したわ。主人公の子供以外にも、盲目の友人とか、町の裕福な家の子供とか、子役がいい味だしていたね。

さて、エジプト映画『敷物と掛布』は、まったく現代的な作品である。スピード感も、映画の構成もすばらしい。映画が始まる前に、外語大で撮ったという監督自身のあいさつの映像が流れたが、若いあんちゃんだった。

話は、ムバラクを退陣に追い込んだ2011年1月のエジプト「革命」を切り取ったものだ。

刑務所の収容者が脱出する際に、たまたま知り合った人物から託された携帯。そこには人々に伝えるべき「真実」が映っているという。社会が大きく混乱する中で、主人公はつてを頼って、ついにその人物がコプト派教会の祭司であることがわかるのだが、その時はちょうど当人の葬儀が行われていた。主人公は革命派のメディアにそれを届け、映像の中身を見るのだが・・・。

映画が触れているのは、暴漢によるコプト教会襲撃なのだが、それだけが「伝えるべき真実」なのではない。この映画に出てくるちいさなエピソードの断片そのものが、「伝えるべき真実」に属しているのだ。

作品そのものが自己言及的で、クラインのツボ的な構造になっている。

ニュース映像の利用、主人公たちと一緒に走るカメラ、複雑な政治状況をきちんと等身大で見せるエピソードのはさみ方、昔の監督でいえば、コスタ・ガブラスのような冷静な状況把握がある。しかしながら物語の展開、登場人物が入れ子のように相互に入り込む点では、まるでデヴィッド・リンチの『マルホランドドライブ」』や『ロスト・ハイウェイ』だ。

また、物語の中で、主人公の話す言葉はほとんど出てこない。会話のシーンはしばしば騒音や、あるいは彫像の陰に隠れて、あたかも主人公の実在感がないかのような、希薄な感じが、あらかじめ示唆される。これは『シックスセンス』か、いや、やっぱりこれもリンチの影響だろうな。

地域社会や家族関係とか、せりふなしの演技だけでいろんな複雑な状況が説明されるのは、脚本や映画のアイデアそのものの勝利だな。

というわけで、アンリアルがリアルを示唆するような、そういう意味で、対象となっているのがつい最近の事件であるということもそうなのだが、それ以上に、発想とか方法論そのものがめっちゃ現在であるような映画である。

今日メディアが人間の情報環境を全面的に支配・統制し、人々が作る言説世界が、それらの生み出す「物語」に覆い尽くされている状況においては、「真実」は「断片」となって、メディアのもたらす「物語」の背後に散らばっている。それらの散乱する断片を集める中から、「知られざる真実」を映し出すためには、これだけの委曲が必要なのだと思うと、なかなか大変だな、と思うけど、まずはこの若い監督の才能と、作品の疾走感を褒めちぎりたい。

いやーたいしたもんだ。こんだけの知性や才能は、君たちの間にはないね(キッパリ言いますよ)。

こういう才能を発見して、めちゃうれしい。

2017年1月20日 (金)

さて今はうちにいるのだが

うちにいると、まとまるものもまとまらない。しかし、このところ大いに時間があるので、はっきりした論旨がなりたとうがなりたつまいが、とりあえず書いてみることにしよう。

前回のところで問題として取り上げていたのは、「言論をたてるとはどういうことか」ということだった。そして、道元について、彼が中国の学習環境の中で「異文化」にかこまれながら起居学習してきたことと、彼が「日本語で書く」ことに大いに頑張ったことと、この二つの間にはおおいに関係があり、その関係が「書く」という行為についての説明をなすのではないか、というのが前回の論旨であった。

和辻も触れている、『正法眼蔵随聞記』にでてくる、破衣の学僧は、たしか中国の奥地からきたひとだったと思う。奥地と言っても四川のあたりか。そこで想像するのだが、当時の中国語の学習環境というものはどんな風だったのだろうか。まず道元がまなんだ如浄の寺、天童寺(天童山景徳寺)は寧波のあたりにあるらしい。その辺はいまの感じからいくと上海語のような「呉の中国語」(?)みたいなものが話されていたのだろう。また、そこに学び集う学生たちは、その話にあるように中国全土から集まってきていたわけだから、それこそ多様な言語を話す人々の共同体であったにちがいない。いまのアメリカの大学みたいなものもそのような面があると思うけど、当時の中国の寺はさらに多様な人の集まりだったかもしれない。そういう中で学習した道元が、「日本は海外の遠国にして、人の心は愚の至りである」と考えたのは、まことにもっともであると思う。では、道元はなぜ、『正法眼蔵』を書いたのかということも、同じ論理から想像できる。それは別に、ブッダが「縁起の法」を獲得した後、梵天の指示で、人々に法を説き始めたように、「愚かな日本人に仏法を示してやるという慈悲心のあらわれ」というわけではない。

想像するに、道元は自らの心的経験を日本語の論理として提示することがどうしても必要だったのだろう。なぜというに、心的経験はそれ自身は言ってみれば「本質直観」に属するものであり、その経験のノエマ・ノエシス的な(?)成り立ちは、ただひたすらに生世界に根拠のある言語論理によってしか開示されてこないからなのだ。

つまり、求道者道元にとって、「書く」ことは、「やむにやまれぬ」ことであったのだ。

「・・・が、それにしても私の内の制作欲はやむにやまれぬはげしさがあった。それを私はどうすることもできなかった」、というわけなのだ。(キルケゴール『わが著作生活の視点』)

「おいおい、おまえさ、ナニ、時代も背景も関係のないキルケゴールとか、フッサールみたいなの使ってわけわかんないこと言ってんじゃねえよ、」とか言わないでね

ようするに、言説を構成する、という行為の中には、「本質直観を超越論的に構築する」というような面がある、ということを言いたいのよ。それはもっと日本人的に言えば、「自覚において直観と反省の契機を繰り返す中で進んでいく」みたいなことだと思うわけ。そして、新しい経験は、新しい言語によってしか切り開かれないのであって、『正法眼蔵』はまさに新しい日本語、半ば中国語のイディオムなんかを含みこんだ、新しい文体でもって構成されていったんだね。

前の項目で言った、「言語の間で考える」ということはそんなことを言おうとしているのよ。

で、これは「書く」とはどういうことか、に関する、そのひとつの面の説明ね。

「書く」には別の面があって、これは言うまでもなく「政治権力」の成立と大いに関係があることで、これについては普通の人が普通に理解しているとおりなの。

そのうえで、「学生たちが言論を構成することに積極的ではないのではないか」という問いについて、答えるというか、考えをめぐらしてみたいわけだけど、今日は充分頑張ったので、それはまた後日にするね。じゃ、みんな頑張ってね。

あ、そうそう、センター試験の国語に野上彌生子がでたんだってね。それでそのことを聞いたら、つい、『秀吉と利休』を読み始めちゃったんで、ちょっと、脈絡がとんじゃうかも。

いずれにせよ、受験に邁進しているみんな、寒くて厳しい気候が続くけど、頑張ってね。

2017年1月17日 (火)

さて今教員室にいるのだが

きのうF君と話していて、そのあと思ったことを書きます。その話していたことのひとつに、高校生の言論活動があります。概してこの学年では言論活動が不活発だったという認識なのですが、それはこの学年だけの現象なのか、それともほかでも起きていることなのか、ということを少し問題にしたいと思います。

F君の話によると、ことは大学においても同様なのではないか、ということです。しかも君たちの多くが進学する大学においても学生たちはあまり言説を構成するような活動をしていないのではないか、ということなのです。

そのあと家に帰って和辻の『日本精神史研究』の中の「沙門道元」を読みました。和辻が当時の宗派的言説のばかばかしさを批判し、それに代わって生き生きとした精神の眼にうつった「沙門」、すなわち常に修行を続ける挑戦者としての道元の姿を復元しようとしていることは、その熱い語り口からも、また書かれた内容からも十分に受け取ることができます。その一方、和辻の思想史方法論の限界から、道元の思想の別の面を十分に問題化、対象化し汲み取ることができていない面があることは、前からわかっていて、そのあたりを再確認しようというつもりで読んでいました。

ご承知のように、禅林の教えにおいては、「不立文字、教外別伝」と言われます。しかるに、道元は『正法眼蔵』において、日本語で書き記された論説を構成することを実現しようとしています。そのような論説を通じて、伝えるべき何かを構成しようとしているのです。ここに注がれたエネルギーが大きいだけでなく、道元はまさに『正法眼蔵』という著作を通じて、日本の思想、歴史の上に特筆すべき人格となっているのです。そのことを和辻はどのようにとらえるのか、というのが僕の興味の中心なのです。つまり禅の境地にとって「書く」という行為はなんであるのか、という問いであり、その問いは、ヨリ普遍的な「書くとはどういうことであるのか」という問いにつながっているのです。

それに関して、和辻はいろいろ語っているのですが、ぼくにとっては十分ではありません。ぼくが一番踏み込みたいのは、ようするに、道元が天童山如淨に学ぶとき、またほかの学生たちと議論をするときには当時の中国語であったわけですね。禅の公案と問答のありかたが、きわめて高度な言語ゲームであることは、よく知られるとおりですね。つまり、禅の学問は高度なコロキアル中国語の理解を必要とするものなのです。それは、現代の大学教授がアメリカの大学で専門分野の授業をうけたり、じぶんが学生に授業したりするのとは、くらべものにならないくらい困難で高度なチャレンジだったのではないか、とぼくは想像しているのです。

そのような苦しい勉学の過程を通じて獲得したものを、日本に戻ってきて想起し、人々に伝えようとするときに道元にとっては『正法眼蔵』という、あの表現、あの書記法が最適であった、ということなのだと思うのです。

われわれは『正法眼蔵』に固有の文体、さまざまなイディオムを一読して理解します。

それは、要するに、道元という人が、「二つの言語体系の「あいだ」で考えた」ことから、必然的に出てきたことなのだ、とぼくは理解しています。

和辻も触れているように、「道」とは「いう」であり、道はなによりも言語行為そのものであるのです。たとえ目先の論理が最終的には仏教的「空」観へと撥無されるとしても、まずはロゴスの道を通過しないわけにはいかない。それが当時の「日本語」の水準でどのように可能なのか、そうした「賭け」が『正法眼蔵』の内容そのものだ、とぼくは思っています。

さて、きょうぼくが考えてみようとしたのは、『正法眼蔵』の内容についてではなくて、近年の学生たちが言論を構成することにかんして不熱心なのではないか、というF君との会話についてです。

で、それに対する答えの幾分かが、今まで述べてきた道元思想の解明に関する議論に含まれていると思うのですが、如何でしょうか? もう少し述べたいのですが、今は学校にいて、すでにかなりの分量書いたので、続きは後にまわしたいと思います。

2017年1月10日 (火)

その後

その後、年をまたいで全然書いてないじゃん。

どうもすいません、いろいろありまして。

何がいろいろだよ、おおかた「調査・・・」でも書いてたんだろう。

ピンポーン、正解です!

でも、それってそこまで時間かかんないだろう?

さようでございます、結局正月はだらだら過ごしました、ごめんなさい。

・・・と、いうわけで、再開です。

まずは、暮れに買った岩波文庫『時間論、他二篇』、九鬼周造の時間論などをまとめたもの。面白いね。計量的な時間には「現在」しかなくて、時間を作るのは人間の意志なんだということ。まったくその通りで、そういう時間に、人間の芸術や文学の営為がどのようにかかわっているか、いろいろ述べている。こっちは発展性があるので、もう少しちゃんとかかわりたいのだが、その前、実は「和辻哲郎」に逆戻りしちゃった。

和辻の『日本精神史研究』という本があって、これは岩波文庫ででてるんだけど、実はこれには『続日本精神史研究』というのがあって、前者が大正15年9月刊(ただし中の論文はそれより前に書かれている)なのに対して、後者は昭和10年6月の刊行で、しかも今のところ、岩波文庫の形では再刊されていないものだ。

先般触れた、子安宣邦の『和辻倫理学を読む』の中で、子安は、とりわけ、この本のうちの「現代日本と町人根性」をとりあげ、いかに和辻が「町人」的メンタリティを嫌い、それに対して「家族」とか、「くに」という共同社会の重要性説くに至ったかを取り出してあれこれ論じている。

今回、この『続日本精神史研究』を、岩波の全集版、77年の第二刷で読んでみて、まさにこの「町人根性」論文は、『倫理学』を生み出すような大きな一歩をしるした論文だということを了解した。

もっと端的に言うと、「利益社会」を否定して、「共同社会」、人格の共同を作り出すのだ、というのだ。「個人は全体への没入によって真に個人を生かす」それは「国のため」というときの「くに」として予感されている、というのである。(同論文の結末の部分の記述による)

まあ、思い切ったことをいうもんだなあ、というのが正直な感想である。冷静な学究とみえる和辻にしては、たいした「暗闇の跳躍」である。資本主義、帝国主義の根本にあるのは功利主義的な利益追求で、そこからは社会の原理はでてこない、というのはあまりではなかろうか?

和辻によれば、功利主義の対極にあるのは、「犠牲を恐れることを恥じる」心持であり、「犠牲的態度とは死ぬことにおいて生き、否定を通じて蘇るところの弁証法的態度である」

それは「かつて戦国時代の武士がその一揆運動の中から作り出した、「卑怯を恥じる」道徳と相通じるもので」あり、「キリシタンの殉教者や鎌倉時代の慈悲の行者にあらわれたのと同じ性格」である。自らの利害をを犠牲にする「殉情的態度」でもある。

なんだそうだ。だから個人は全体に没入することに己を生かすのであり、そういう社会を作ることによって、ヨーロッパの生み出した帝国主義とは異なる共同社会を実現できる、というのである。

あー、でました。ロマンティックですね。めっちゃロマンティクですね。なんでこんなことになっちゃったんだろう。和辻の説く「人倫」はまさにこのロマンティック成分が満載なんだということなんですね。

この論文が書かれたのが昭和6年(1931)、昭和10年(1935)の7月に加筆とある。

日本の経済が30年代恐慌から脱出する過程で経済構造が激しく変化して、「新興財閥」の産業が発展していくという、経済の変貌を、この著者は、全くとらえていない。この論文で和辻は、紡績業についてはデータを挙げてあれこれ論じているが、目の前で繰り広げられる国家=独占資本による産業再編にはまったくきづかないまま、さっさと「ロマン主義」へと退行していく様子は、驚くべきものだ。

この集団的な知的麻痺状態を、「碩学の中の碩学」ともいうべき和辻が知識世界のいわば頂点において示しているのだ、ともいうことができる。

和辻を見ていくと、大正教養主義時代の知識追求が、まずは「日本論的転回」を経て、それが1930年代以降に「ロマン主義的転回」へと導かれていく思想の線みたいなものがはっきりと見て取れる。

おそるべし、昭和思想。という感じだね。めちゃ頭がよくて教養ある人でも、そういう時代のイデオロギーの基本線に自分から赴いていくんだね。

じゃ、また。みんな頑張って!

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