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2017年3月

2017年3月29日 (水)

なんだよ(3)

なんだよ、またちょっとさぼってたら10日くらい空いちゃったじゃん。ごめんごめん、わたくし、この3月末をもって37年の長きにわたって務めてきた勤務先をやめることになったのよ。なわけで、もう「送別会」も終わり(ごめんなさい、さぼりました)、エビデイ’s サンデーの状態になってるわけ。こうなると、今まで語りかけるフリをしてきた「黄組健児諸君」もいないわけで、そうなるとなんか書いてもボケ・オールドが相手なしにひとりでブツブツ言ってるのと変わりない状態になってるわけ。
いまJ-Wave聴きながら書いてるけど、ちょうど渋谷に開店したばかりのタイ料理の店「バンコク・ナイト」というのを紹介する放送をしている。
という枕詞で、先日『バンコクナイツBangkok Nites』 という映画を見たことをまずはご報告。
タイランドは政治的には独立国だけど、冷戦時代にはアジアにおける反共主義の拠点として、アメリカの世界戦略の対象でもあり、また投資先として、60年代末くらいから半世紀にわたって日本資本の進出先となっている。そういうことが関係あるんだかないんだかわかんないけど、首都バンコックにおける女性の外人向け接客サービスは殷賑を極めている。そんなバンコックの夜の世界には、日本国から流出した30代40代のおっさんたちが、いろんな形でからんでいる。そんな状況の中に置かれた一組の男女(日本人の男と風俗で働くタイ人女性)を軸に、ことさらドラマ的に仕立てるでもなく、ドキュメンタリ―として何かを告発するというわけでもなく、描いていくという3時間に及ぶ大作だ。
歌舞伎町みたいな歓楽街の街路の様子や、店のなかの様子、見るからに素人っぽい出演者たちが醸し出すリアル感がたまんなく興味深い。
さらに興味深いのは主人公がタイ北部からラオスに抜け、ラオス国内でも撮影していることだ。タイ北部の田舎の家族の様子や、仏教儀礼、独特の節回しで歌う民俗歌謡の歌手も魅力的。ラオス国内ではフィリピン人のラッパーが爆撃でできた大きなクレーターのところでかっこいいラップを披露する。
映像というものが第一義的に持っている機能として、異なる文化とそこで生きる人間を描くことがあると思う。この作品ではそれがきちんとできていると感じた。また、2016年というこの「現在」の「リアル」をきちんと切り取っているとも感じた。
カンボジアPKOに自衛隊員としてかかわった人々の残党が、日本でくいっぱぐれてタイの裏町に「生存空間」を見いだしているなんてのもいかにも感があっていい。
いまさらタイの風俗なんか珍しくないよ、などというなかれ。そこで働く人にも家族があり、伝統文化があり、家族の軋轢があり、ベトナム戦争が影を落とし、タイ国内における民族間の関係が影を落としている。そういう大状況、小情況、主要な矛盾と副次的な矛盾、そうしたものを何か一刀両断的に描くのではなく、含みを持たせながら描いていくところに特徴がある。
 映画の多様な登場人物たちは決して希望に満ちた人とは言えない。しかしながら、この映画が指し示しているのは、現代のメディアが伝えるところのグローバル資本のもとで、「一次元化」した人間ではなくて、はるかに多様性に満ちた人間のありようなのだ。ディズニー映画が描くような単純な希望はないけれど、多様な希望はある。
まさに「希望なき人のために希望は与えられている」(ベンヤミン)ことをあらためて思い起こす。
ある映像作家の本のタイトルに『世界はもっと広いし、人はもっと優しい』というのがあったけど、あらためて「世界の広さ」を感じさせてくれるフィルムだよ。
日本の映画もこういう」ことができるようになったんだね。そしてちゃんと新宿の大スクリーンで上映して客もはいるようになったこと。これはひとつの事件じゃないのかね。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

2017年3月18日 (土)

なんだよ(続き)

なんだよ、もともとブログなんてものは、電子デバイスの上の濃淡によって提示される文字列であって、そのへんの砂粒みたいなもんでしかない、というところから始まったのがこのブログだろ。それなのに、たまたま職場の関係で会った人から「ブログ読んだよ」と言われたりとか、書いた内容についてさらに議論したりとかして、すっかり「だれか読んでくれてるじゃん」的なマンゾクと、一方で、「なんかそういう「読者」むけに書かなきゃいけないんじゃね?」的な意識がでてきたりして、そういう考えが少しでも生まれたとたんに、「大向こうを意識して」なんか「連続して書かなきゃいけないんじゃね?」的な、くだらねえ自意識みたいなものが見え隠れした段階で、もうこのブログダメなんじゃね?、的な感じになって、なにもかも「破壊してやるぜ?」的なキブンになるわけよ。

だが、ここが我慢のしどころだな。

こないだ、ピアノの調律のY本さんが来て、調律が終わってひとしきりお話しした。その時の話題で、ピアノを弾く人は、相当できる人でも、人前で演奏するのをなんか躊躇する、という話がでた。いろいろ理由が考えられるのだが、その中のひとつに、ピアノの場合特に「ミス」をしたくないがゆえに緊張する、ということがあるのではないか、みたいな話題になった。

ちょっと関係ないけど、たとえば人前でのトークに関していえば、途中で突っかかったり、絶句したりするのもそのひとの「思い」の表れみたいに受容される。それに対してピアノを弾いたりするときに突っかかったり、別の音をたたいたりすると、「なんだよ、ダメじゃん」みたいなことになる。人が音楽に期待するものの多くが、音の連続がもたらす「心地よさ」みたいなものだからだろう。

でもさ、いったい音楽って、だれのためにやってんだろうね。

誰かを楽しませるのは立派なことだけど、そもそもは自分の楽しみで始めたんじゃないの?「技量」に優れていることは大事だけど、「技量」があるだけで、それを「表現」としてとらえていいの?みたいな、そんな話題になったわけよ。で、Y本さんが言うには、日本のピアノ教育が、常に鍵盤をうつ正確さのトレーニングに集中しすぎて、結果的に、学習意欲の一定以上の向上を阻害しているんじゃないか、みたいな話になったんだ。

たしかに、バイエルだ、チェルニーだで、指のジムナスティックをやってだんだん上達して、最終的にはロボットみたいな演奏に習熟して、なんとかコンクールで入賞するところまでは行くかもしれないけど、じゃ音楽家として、どれだけ、何か人に芸術上の満足を与えられるか、って話になると結構難しいものがあることはまちがいない。

いや、どんな表現分野もみな同じだよな。絵がうまい人はやたらたくさんいる。技量に習熟するだけではとても足りないことははっきりしている。その残りのもの、「技量」といったものに還元できないなんらかのプラスアルファが必要なんだな。

音楽教育についていえば、ただただ「型にはめる」のではなくて、もっと別のアプローチがあったっていいわけよ、みたいな話ね。

そんな話をしながら、普通の初学者であれ、あるいはある程度の実力のある人であれ、ピアノ演奏の場合、「誰かが聞いている」となっただけで、「ミスをしちゃいけない」という気持ちが先立ってしまい、なんか「緊張した」演奏になってしまう。あるいはそれとは正反対なんだけど、機械的に上達した連中が、「ぼくちゃんお上手でしょ」の自慢みたいな演奏になってしまう、ということもあると思う。いずれにせよ「表現芸術」として、何を表出したいのかがはっきりしない演奏しかできないことになる。言葉を変えて普通の言い方をすれば「深い情感の表現に到達できない」、ということが問題だ、というわけだ。

これって多分ピアノだけの問題じゃないな、なんか教育メソッドに関する根本的な問いが含まれてるよな。

こないだ、O田に勧められて Xavier Dolan のカンヌグランプリ映画見たわ。役者にめっちゃストレスをかけるタイプの映画で、アクションもなけりゃキレイな風景もなくて、ただひたすら見る人にもストレスを与え続ける映画だけど、これを撮った監督はもちろん(27歳だって!)撮らせるプロデューサーも、これに賞を与える社会も「成熟」してるよな。

見てないうえでまあ、ゴジラでもアニメでもいいけどさ、映画についていうとしても、もっと別の、全然別の、アプローチがあるべきじゃねいの?、とは思うわ。

同じように、音楽とかの表現にかかわることもそうだし、もっと一般化して、「表現」ということに関連して、成熟社会にふさわしい教育メソッドがあるべきなんじゃないの? と言いたいわけよ。

従来の「型の模倣」、「共同体内の競争」、「お上手ねと褒める」、こういうタイプの教育は、先がないよな。

そんなことをもっとでかい声で話しあうことはできないのかね?

調律のY本さんの話と、映画の話とかごっちゃになって散漫な話題になったけど、許してちょ。そもそも、今日の話題のキモは、ブログといえども、なんか他人の目を意識したとたんに自由に表現できなくなるキケンを感じるぜ! という内容にしようと思ったのが脱線してこうなったのだった。じゃまたね。

2017年3月13日 (月)

なんだよ

ずいぶん間が空いたのかと思ったけど、たった一か月と一週間空いただけじゃん。しかしながらこの間に、わが黄組健児のこれから一年の過ごし方もあらかた決まったというわけだ。



この間に僕にもいろいろあったけど。一番インパクトのあったことから書こうかな。短いものだけど、ルドルフ・シュタイナー『ニーチェ みずからの時代と闘う者』を読んだことかな。



(原著は1895年刊、翻訳は高橋 巌訳、岩波文庫、2016.12)



シュタイナーは、1861年生まれなので、この本はシュタイナー34歳の時のもの。ニーチェは1844年生まれ、1900年没なので、シュタイナーより17歳年上ということになる。しかしながら、二人は急速に近代化を展開した19世紀後半の時代精神を共有する関係にあった。そして、同時代人には理解されず孤立していたとされるニーチェについて、シュタイナーは最初から共感をもってその著書を読んでいたようなのだ。それだけではない。この翻訳書の後半には、シュタイナーのニーチェ講義が収録されているが、その両方で、シュタイナーがニーチェに面会したときの様子が述べられている。このときのシュタイナーの受けた印象が極めて興味深くまた、その面会の経験が、シュタイナー自身の議論を強化するものになっているのだ。実際にシュタイナーが、何年にニーチェに会ったのかはよくわからないが、著書を通じてのニーチェ理解から、さらに面会を通じて、その時の印象というか経験というか、そこから導かれたニーチェ理解が無理なくつながっていることに驚嘆した。



ぼくは仕事がら、ニーチェの本を何冊か読み、またニーチェを論じたほかの哲学者の本なんかも目をとおして、いわばポストモダン風になんとなくニーチェを理解している気になっていた。ところが今回のシュタイナーの本は、19世紀後半という文脈をとても強調していて、そういう文脈の中で見えてくるニーチェの像がとてもくっきりしているのにびっくりしたのだった。とくに、ニーチェの「永劫回帰」のイメージはなんとなくコモ湖のあたりかエンガディンで、山を眺めているうちになんとなくアイデアがわいてきたように勝手に想像していたのだけど、そうではないのだ。むしろ、同時代の、実証科学とそこから導き出された19世紀的唯物論の哲学に深く浸されていたことが大きな特徴だ、というのだ。



ポストモダン的解釈というのは、ニーチェが「ソクラテス以前」のギリシャに理想を見出したときに、同時に19世紀的な通俗唯物論を乗り越えて、生命論的、物活論的な物質観を見出していたのだろう、ということで、その点では同じく生き生きとした「存在」把握を目指したハイデガーの先駆者であり、同じ探求者であった、ということを意味している。



しかし、シュタイナーの共感的なニーチェ論は、ニーチェはいま述べたような答えをあらかじめ見出していたわけではなくて、その一歩手前のところで、時代の要求(科学主義、通俗唯物論)と、自身の求めるはるかに高い理念とのあいだに引き裂かれ、絶望的に闘っていた人間の姿なのである。



いうまでもなく、これこそニーチェという人間の真実に近いのだ。そして、この絶望的な戦いこそが、ニーチェに狂気をもたらした真の原因なのである。



シュタイナーによるニーチェとの面会の記録はあまりにも真実を抉っているようで、読んでいて怖い。優れた哲学者といえども、時代の制約を受けている。そして時代を乗り越える哲学といっても、決してイデアが天から降ってくるように実現するわけではない。むしろ、そうした霊感を得た試みは、その当の人物から正気を奪い、ついには生命をも奪ってしまうのかもしれないということだ。



アストラル体とかエーテル体とかを言う、シュタイナーの解釈が正しいのかどうか、それはなんとも言えない。でも、「ニーチェが何を語っているのかが問題なのではなく、語ることで、彼の心の中の燃え上がるものを示唆している」、というのはまさにその通りだと思う。



ニーチェは 「真に深い魂にとって、唯物的な世界観の中で生きることがどうして可能なのか」、という問いを提示して、その中で死んだ。



ハイデガーやデリダもまた、同じ問いを生きてきたようにも思うのだが・・・



シュタイナーによれば、答えは「エレウシスの秘儀」や「オルフェウスの秘儀」の中から取り出すべきだった、という。だが、我々現代人は、そのような秘儀を自らの真正の生の一部として生きることは不可能になっているのではなかろうか?



むしろ、シュタイナーが述べているのだが、19世紀の科学者、たとえばヘッケルのように、感覚的世界の中で「顕微鏡を使って仕事をし、その中で気分を高揚させ、若々しく、仕事に励める」ことで満足するほかは可能性はないのではないか、という風にも思えるのだが・・・



というわけで、とりあえず、久々の更新となりました。この一カ月くらいの間に何本か映画も見たから、次はそれについて書きたいな。









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