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2017年4月

2017年4月30日 (日)

さて

きのう、連休の最中の日曜日、天気がよかったので、人のいなくなった都心の緑の中を散策しようと、適当に家を出て、青山あたりを散策した。六本木通りの広尾側、常磐松御用邸ふきんでは、時間貸し駐車場スペースで近隣の会社が、なんか個性的なガレージセールをやっていた。その後、根津美術館まえから青山通りにぬける、コム・デ・ギャルソンのあるみちで、右側にある路地にはいったら、そのままうらから青山通りに通り抜けられるようになっていて、たくさんの小さな屋台が出て、ライブ演奏なんかもやっている。そんでもって客だねはというと、やたら外人比率が高く、妙に盛り上がっているではないか。んなわけで、つい調子に乗って生ビールとポテチを購入した。このビール、アメリカのナンバーワンクラフトビールみたいなことが書いてあった。まあ、アメリカのビールということなので、あまり期待せずに購入したのだが、飲んで見ると意外に小生の好みにあった。フランスなら、"blanche"にあたる、すこし濁って、しっかりした味のあるビールである。しかもグラスの縁に大ぶりのオレンジが添えられているではないか。かなりオシャレである。となりの屋台で買ったポテチも生じゃがから作った感満載で、かなりいけたのである。
その後、表参道方面にむかい新潟のアンテナショップなどに立ち寄ったあと、"Rituel" で食パンを買って家に戻った。戻ってから、あの表参道方面交差点近くのなんかスペシャルな空間とビールのあじわいが気になって調べてみたのよ。そしたら、まずあの祝祭的な空間は「自由大学」っていうんだって。「自由大学」のWebsiteみたけど、文科省管理下の各種学校ではなくて、ま、フリースペースとカルチャースクールを足したような、そんな趣のある場所らしい。何か教えたい人、学びたい人が出会って、そのコミュニティーからいろいろ始まる、みたいな感じか?こういうのソーシャル系大学っていうらしい。で、小生としては、これってけっこうイケルんじゃないかなって思う。20年くらい前に、フランスで「ソクラテスのカフェ」、っていうのが流行ったことがある。カフェに集まった人たちが、社会問題などを話し合う中でいろいろな関係が作られたり、いろいろな学びの機会を得る、というものだ。商業的な成功をめざすものではなく、あくまで自主的、自然発生的な感じで運営するというもので、ちょっとした社会運動のような態をなした。この運動の中心人物で著作を通じて有名になったのが、マルク・ソーテという人。日本に来たときに直接話を聞いたことがある。残念なことにソーテさんは若くして亡くなった。ソーテさんは哲学の専門家だが、そういうひとが積極的に労働者と対話していくところはフランスユマニズムの伝統でもある。

ちょっと話が逸れたが、このソーシャル系大学と称するもの、日本型のソーシャル・コミュニティーの新しい形のひとつになるのかな、みたいな期待も持ったわ。まあ、世の中のことを何もしらない小生が偉そうにいうつもりは毛頭ないけどさ、だいたいが、日本でなんかやろうとすると、結局は商業主義の引力に引っ張られるのね。そいで、文科省もふくめ役所は率先して商業主義に手を貸すくせに、本当にソーシャルなものに対しては規制をかけて権力を行使しようとしがちだ。

あとさ、学校でも、興行でもそうなんだけど、作る人と使う人、教える人と教わる人、こういう非対称の関係みたいなものを固定する社会通念があるんだけど、ほんとは違うんじゃないか、って感じもある。小生のようなものがいうのもいかにもヤバイ感じがするが、「先生はどこまでも先生」くらいならともかく、「恩師」なんて旧時代的な言葉が、現代という文脈の中で誰かがそんなことをいうのに出っくわすと、どちらかというと「恥ずかしい」ような、「もう聞いていられない」ような、なんか「洗練」finesseとは正反対のものを感じてしまう。
テレビ観てても、ニュース見てても、普通のひとが一番演技がうまいよね。老いも若きも男も女も、ニュースにとって都合良い、テレビ向けの発言を誰にたのまれたわけではないのにうまくコメントしてくれる。
一般市民のそれぞれのスキルがとても向上している今の社会で、教える側とか、情報の送り手とかを特権化し、固定化する今のシステムはなんかある種の制度疲労の状態になってるように思うんだ。
だからソーシャルな学びの場を提供する、ってのはけっこういけるんじゃね?

あ、ゴメンゴメン、小生は偉そうなことを言うつもりはなかった。言いたかったことは、あのアメリカンビール、旨かったナア!ということで、それ以上ではない。それが自由大学のビジネスモデルの一部であるなら、これは無視できないぞ、と思っただけだ。




ちなみにそのビールは BLUE MOON っていうんだ。調べたらいろんな場所で提供されてるみたいだけど、瓶じゃなくてプレッション(生ビールみたいな)で提供してる店はそんなには無いんじゃないか。
あー、また飲みたい!

2017年4月29日 (土)

昨日、いやもうおとといか?

駒沢にあるイベントスペースで、太田真博監督『園田という種目』(93分)2015年作品、 を上映するという催しがあった。SKIPシティIDCFにおける上映作品を選んでいるカンバラさんがナビゲーターとなって、普通はなかなか見る機会がない、若手の映像作家の作品を紹介し、合わせて映画作家と観客が交流するという催しだ。ちなみに映画を撮った太田監督は良い子たちの先輩にあたるひとで、今30代半ばの人。すでに各地の映画祭でいくつも賞ををとっている。
そんで、上映のあと、監督、出演者、ナビゲーターのカンバラさんを交えてあれこれ話すことになった(堀田会)。そんときに、なんかこのブログの話が出て、その時に、「今日のことをブログに書くのか?」的なことを尋ねられた時に、つい調子に乗って、「僕は一旦自分のあたまを通したことしかかかないよ」みたいなことを言ってしまった。

その言明はあやまりである。それで申し訳ないと思い、いっそ、直接的なその日の出来事を書いたほうがイイんじゃね、みたいに思い、この今日のブログを書き始めた。

今書いている今日のブログは、昨日、いやもうおとといか、の事である。で、おとといの夜の催しの事を書こうとすると、太田監督の映画の内容に触れないわけにはいかない。しかし、今回の作品に至る前に太田監督が撮った映画も見ているので、それらも含めて論じないと片手落ちである。説明的にそれをやるのはちとシンドイ。なぜシンドイか、というと、この作品にいたるまでの監督の歩みについて多少の知るところがあり、映画を作っている現場についても多少知っていて、その上、このフィルムには、僕みたいな人が出てくるので、それだけでもなんとも書きにくいのだ。

しかしながら太田監督についてきちっと述べないわけにはいかないし、非常に困る。第一今はもう夜中で眠たくなってきた。でも少しだけ書いとこう。

太田監督の作品の特徴は、登場人物がとにかくよくしゃべることだ。それは多くの場合まったく自然な会話で、その人物がそういう話しっぷりをするのは誠に自然で、リアルおしゃべりをしているところを撮ってるんじゃないか、的な印象を持つのである。だから初めのうちは、太田監督の作品は、イギリスのマイク・リー Mike Leigh 1943~ みたいだ、といっていたのである。ちなみに僕がみたリー監督の映画には、イギリスのカトリン・カートリッジさんという印象的な女優さんが出ていて、その人は、ベルギーの監督がボスニア内戦をえがいた Before the Rain 1994, ベネチア映画祭金獅子賞作品で、とても深い情感のこもった役柄を演じていたのだが、なんと、10年前くらいに若くして亡くなってしまったのである。リー監督のことを考えようとするとカートリッジさんの顔が浮かんで来る。ちなみにおなじころ、ニューヨークの新美術館で、イギリスのアーティスト、ウイリアム・ケントリッジのアニメを見たので、キャサリン・カートリッジとウイリアム・ケントリッジが音の響きのうえだけでときどき混ざってしまうことがある。
ま、それはともかく、太田監督の作品は巨匠といわれるリー監督の仕事かと思わせる何かがある、とおもったのだ。それが正しいのか、違うのかよくわからない。太田監督のやり方は多少は知っているが、マイク・リー監督がどうやって撮っているかは知らないからだ。でも結論だけ言うと、太田監督がやっていることには何か「すごい事」があることにはまちがいない。その点だけについて言うと、今回の作品よりも、前の「レディー・ゴー」とか、「笑え」においてヨリ顕著なような気がする。今回の作品では、会話そのものよりももう少し踏み込んだ、劇団関係者の仲間たちの簡単とは言えないというか、どちらかといえば現代日本の世相そのものである、カンタンにはいかないニガイ面が前面に出ているからだ。そういう事をえがけると言う点では監督にとっては進歩であり、作品世界の構築という点では他のやり方があるとも思えないが、純粋芸術的な観点での「すごさ」という点では、その部分が薄まってしまうこともあるのではないか、みたいな感想も持った。観客の笑いがとれる、っていうのはとてもだいじだし、自然に笑えるっていうのはとても楽しいことであることはまちがいない。笑いが起こるのは観客が安心してその世界を客観的にみているからで、そういう安心を与える事はすでに大メディアが常に求め、日々実現していることなのではないか、ということもチラリと浮かぶ。何がいいとか、ということではないが、「安心」できることは「すごさ」とは対極なようにも思えるのだ。

あーゴメンよー、今日もまた偉そうに書いてるって思わないでね。一生懸命考えてるんだyo



2017年4月26日 (水)

アドルノ『否定弁証法』について

第3部 「いくつかのモデル」は、言って見れば否定弁証法のケーススタディのようなものなのだろうか。Ⅱ 世界精神と自然史 ヘーゲルへの補説 を読み進むうちに、ヘーゲルについてあれこれ論じながら、結局最後のところは随分と思いきった解釈に到達しているのがわかった。
たとえば『法権利の哲学』での中で、憲法について、「一般に憲法は作られたものというよりは、むしろ絶対的に在るものであって、神的で永続的なものとして考察されなければならない」と言っていることを取り上げ、自然の直接性を媒介とした歴史世界の産物としての憲法が、ここでは自然として考察されること、つまり、歴史的領域が自然としてとらえられているとする。

「彼の「世界精神」とは実は自然史のイデオロギーだ」

というのである。

「偶然的なものという本性を持つものには偶然的な出来事がおきる。まさに宿命こそ必然性である。一般に概念や哲学は、偶然性の視点をものともせず、仮象としての偶然性の中に必然性を認識するのである。所有とか生命といった有限的なものが偶然的なものとされるのは必然であり、それが有限的なものの概念だからである。 この必然性は自然の威力の姿をしていて、(自然に従えば、)すべて有限的なものは死すべきもの、無常である」

ヘーゲルは歴史哲学の根底に自然や自然の威力をおく。ヘーゲルは世界史の主役である国家の働きを「第二の自然」と感じたのだが、さらにそこで第一の自然そのものを賛美したのだ。自然を絶対的に第一のもの、直接的なものとして問うこと自体が欺瞞である。「人為的なもの」と「自然的なもの」 ( テセイとピュセイ/. Θεσει Φυσει ) をただ二分法的に云々するのでなく、歴史的とされるものをその歴史性の深いところで自然としてとらえ、また自然的自然を歴史的存在として把握することが重要なのである、と。

自然と歴史が通約可能になるきっかけは、「無常」Vergaengnis である。

「・・・自然の顔面には無常の絵文字で「歴史」と書かれていて、バロック悲劇によって舞台に乗せられたこの自然=歴史のアレゴリーの顔は、じっさいに廃墟として眼前にあるのだ」(ベンヤミン)

哲学は、つねに新しい予兆であるあの絵文字を、ごく小さなもの、衰滅Verfall によって粉々に砕かれた断片のうちに読み解かれなければならない。ヘーゲル哲学は絶対者の生命と有限者の無常の全体を同一視するのだが、(そのほとんどはカスなのだが)そのむこうにかすかな見通しを与えているのだ。
(以上、引用終わり)

よくわかるね。

まあ、この第3部Ⅱ は、こうして最後のところは論旨がはっきりしてくるわけだ。


さて、第3部のⅢ 形而上学についての省察 は、冒頭から、きわめて激しい議論が展開する。この部分だけでアドルノの思想が面白いくらい十分に展開しつくしているようにも思える。


1 アウシュヴィッツのあとでは、我々の生存が肯定的なものであるといういかなる主張もたんなるおしゃべりに見え、そうした主張は犠牲者たちに対する不当な行為であるという抵抗感が沸きおこらざるをえない。形而上学への能力が麻痺してしまったのは思弁的な形而上学が経験と一致するための基盤が現実の出来事によって打ち壊されてしまったためである。

アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない」は誤りかもしれないが、けっして誤った問題でないのは、アウシュヴィッツのあと、まだ生きることができるのかという問題である。 殺戮を生き残った者につきまとう、激烈な罪科の思いである。
このような時代には、思考が真であるためには、思考は、思考自身に対抗して思考しなければならないのである。
概念化を逃れていくものたちの中で最も極端なものを基準にして自己を測るのでなければ、思考は、「伴奏音楽」、SSが好んだ音楽と同じものになってしまうだろう。



2 子供の時、あるホテルの持ち主でアダムという男がいて、ホテルの穴からネズミが出た時、子供たちがみている前でネズミを捕まえ、叩き殺してしまった。それ以来その子供は、最初の人間のイメージをこの出来事にしたがって作ることになった。このことを忘却することが文化の勝利なのだろうか?

文化が悪臭を忌み嫌うのは、自分がそれを発しているからではないか? ブレヒトが見事に指摘したように、「文化の宮殿は犬の糞からできている」からではないのか?
アウシュヴィッツ以降、文化とはようするにゴミ屑のことである。文化がもっともらしくいう自立の中には非−真理がある。文化の維持を論じるものは野蛮の一味に与するものであり、文化を拒むものは直接に野蛮を促進することになる。では沈黙すればなんとかなるか?沈黙はただ主体の無能っぷりを合理化するに過ぎないだろう。

文化の持つアウラとは、ようするに暴力の原則だ。

3 ハイデガー流の「死の形而上学」がこうした状況に応えることができるのか?


死そのものを歴史的複雑な絡み合いから取り出したり、生物学的な原現象としての死なるものを切り出すことはできない。
「不滅性」とか「不死性」とかいった「理念」をかりに形而上学としてもいじすることができるのだろうか?

4 プルーストの叙述が示すように、いかなるものにも解消し難い絶対的に個別的なものを見ることによってのみ、まさしくそのものがかつて存在し未来にも存在するだろうと希望することができる。この絶対的に個別的なものを追い求めることによってのみ、概念は充実した内容を得る。「幸福」はこのことと関係していて、形而上学的経験の中でむなしい願望以上のものである。


形而上学的経験とは何か?それはベルクの『ヴォツエック』でいえば、「空しく待つ」ことを表現する数節の楽音で表現されているものだ。


5 形而上学的カテゴリーが生き残ってるかんじがするのは、「人生の意味への問い」みたいな形だ。人生の意味なんてものを突き詰めること自体が死なんだ。
また「一切は無である」なんてのもくだらない。
ベケットの形象世界では、世界は強制収容所であり、もはや何者も存在しないのだが、その欠如の裂目から何者かがたちあらわれている。

そのあとは、6〜11で、カントの断念、ロマン主義的伝統と自由、スピリチュアリズムとは精神と物質の二分を説く非−真理であること、いろいろごちゃごちゃ述べたあと、 12 弁証法再考で、アドルノは珍しくも、非常にポジティブな形で「崩壊の瞬間における形而上学的と連帯する思考」、すなわち「同一性の欺瞞を打ち砕く思考」の可能性を提示している。

ここのところはもう一度じっくり検討してみよう。

今日はここまで。よいこの皆さん、さようなら。



2017年4月25日 (火)

このところ

このところ、大学図書館の恩恵により、集中的に学習しているので、二十年間くらいの知的遅滞をだいぶ取り戻してきた。

例えばヘーゲルにおける「概念」の位置付け、なんてことに関しても、「ガイネンはガイネンじゃなくてカイニンなんだよね、それがわからないと、ヘーゲルなんかもさっぱりわからないよね」
という20年前に思ったことを、今ありありと取り戻しているところである。

あ、今日書こうと思ったこと、全部言っちゃったわ。

前回までのブログでもかなり意識して書いていたように、マルクーゼは、『ヘーゲル存在論と歴史性の理論』で「生命」概念をヘーゲル存在論の根源的基礎として研究しているわけなんだ。なぜ生命原理が大事かということは、今日の最初に書いたことで、ある意味言い尽くされちゃってると思うんだな。

ガイネン化するとはカイニンすることだから。できれば、immaculate conception でありたい。というか、 immaculate conception は究極の「直接性」でもあるように思える。
(これが今日呈示する根本テーゼです)


さて、議論が錯綜しそうなので、いつもと同じように確認したいのだが、僕が一貫して追求しているのは日本倫理学とか日本哲学というようなものがあるとして、それがどのようなものでありうるのか、をとりわけ20世紀中盤にはいりかけた、昭和10年くらいを境にした前後の時期を中心にみていこうとしているわけだ。わかったことは、この時期、1930年代の世界経済の転換の中で、日本社会の階級的配置が変化し始め、あらかた今日の小市民的・都会的な生活様式が定着し始め、それを背景に、文学や評論の目指すものも、幕末以来の「国家的独立」といったようなものではない、ヨリ広い文脈の中に置かれるようになったという事実がある。いわゆる日露戦後の「煩悶青年」の時代から、西田哲学のはなばなしい登場、漱石文学に登場する青年たちをイメージしていただければ、こうした変化を了解してもらえるだろう。そういう変化を背景に、かつ、日本社会の対外膨張という事態を含み、知識人が時代の課題と普遍的な学問の要請にどう応えたのか、を一貫して問題としている。

そのために、ヘーゲルの何が問題なのかを捉えようとして、今深入りしているところである。それでも、ヘーゲルをみていくのに、ジョン・デューイでもいいわけだし、アレクサンドル・コジェーブでもいいのに、なぜ、マルクーゼ、そしてアドルノなのか、と言われてもこまる。あくまで「とりあえず」だが、多少の偏愛もあるかもしれない。

前回、アドルノの『否定弁証法』にとりかかったところで集中が途切れてしまい。今日はその続きを遂行しようとしている。

まずは感想から。マルクーゼは大学の先生を長くやっているせいか、わかりやすく親切に説明することを大事にしているように思う。それに対してアドルノの文章は、なんか「オヤジのぼやき節」みたいな感じで、ブツブツ繰り出す感じである。アドルノの場合はそういうボヤキの連続が岩石だとすると、その岩石にはキラキラ光る鉱物がいたるところで結晶化しているといった具合なのである。その結晶をとりだしたいのだが、その貴重な結晶はあくまで母岩の中に混じっているだけなのだ。

そんなわけで、『否定弁証法』の文章から何か結晶化した部分を取り出すことは難しい。
第3部のⅡ 「ヘーゲルへの補説」と Ⅲ「形而上学への省察」から少しだけ書き出そう。

2017年4月23日 (日)

で、結局、ヘーゲルの正嫡は?

ヘーゲルの継承者と言えるのは?
もちろん、19世紀の前半にはヘーゲル学派の右派と左派がいることや、その後はカール・マルクスが違った形で弁証法を唱えたことはもちろんのこと。1940年頃には亡命してパリにおちついた アレクサンドル・コジェーブ が、パリの哲学者に圧倒的な影響を与え、例えばサルトルの『存在と無』なんかにも直接影響していることは知られる通りである。

そんな中で、なんでまた先般からマルクーゼばかり取り上げるのよ?と疑問に思う人もいるとおもう。

流れとしては、先般から問題としているのは和辻倫理学であり、日本の1930年から40年代半ばまでの社会概念の形成であって、ヘーゲル哲学との内的関連を確かめようというのが動機だったわけだ。マルクーゼの『理性と革命』は、ヘーゲル思想を生き生きととらえるだけでなく、そこからの社会理論の興隆を叙述している。

結論だけ言っちゃうと、19世紀に実証主義の社会理論が主流となり、否定の要素を持つヘーゲル主義は受け入れられなくなった。また20世紀になってファシズムが起こるとヘーゲル主義を取り入れたと称するものもでてくる。しかしこれも、マルクーゼに言わせればヘーゲル主義とは程遠いのだ。1954年に追加された『理性と革命』のエピローグの中で、マルクーゼは次のように述べている。

(以下、引用)

ヘーゲルは精神の生命を、したがって理性との生命を「否定の力」のうちにみた。この否定の力とは結局「現存するものpositive」が自由における進歩にとって障害となるやいなや、それを拒否することによって、発展していく可能性に応じて既成の事実を把握し変革する力であった。自由がいまだ現実的でないかぎり、理性はまさにその本質において矛盾であり、対立であり、否定である。もし理性の矛盾的、対立的、否定的な力が打ち砕かれるなら、現実はそれ自身のポジティブな法則のもとに運動し、精神に妨げられることなく抑圧的な力を繰り広げる。最近の産業文明の 進歩には否定の力のそのような衰退が伴っていた。

ここには1961年の『1次元的人間』のテーマがほぼ描き尽くされている。ヘーゲル主義は歴史的には「終焉」し、新しいユートピアがすでに出現しているというのである。

まさに「否定」を通じてヘーゲル的理念をみずからが体現しようとしているようにも読めるわけである。60年代の学生運動や反戦運動が下火になると、マルクーゼは、「美的次元」に解放の可能性を見るようになっていく。

ここまでごちゃごちゃ述べてきて、言いたいことは要するに、僕がみる「ヘーゲル」の継承とは、マルクーゼにみられるような「個人の解放」なしには考えられない、ということ。それがヘーゲル理解の「キモ」だと思っているわけ。


ここにいたるともはや和辻なんてのは、とんだ問題外になってしまい、和辻の議論なんてものが、ただの権威主義的なオヤジの説教以上のものではないことになってしまうわけで、まあ身もふたもない言い方でほんとうに申し訳ないけど、ホントのことだからしかたないね。
ここで一旦マルクーゼは離れるけど、まだマルクーゼの議論には未練はある。彼の「大いなる拒否」と「美的なもの」の位置付けをきちんとみたいという気はある。しかしその前にもう少しだけ、ヘーゲルに関連して見ておきたい人がいる。

それは、そのものズバリ、『否定弁証法』という本を書いた、アドルノという人である。
『否定弁証法』Negative Dialektik :1966, Suhrkamp, Frankfurt am Main

アドルノのヘーゲル理解に関しては、この『否定弁証法』の第3部「いくつかのモデル」のうち、「II 世界精神と自然史 ヘーゲルへの補説」が参考になりそうだ。またその続きの、「Ⅲ 形而上学についての省察」がよさそうだ。

序論のところで、アドルノはこう問いかけている。
「哲学がヘーゲル哲学の崩壊後も一般になお可能であるかどうか、可能であるとすればどのようにしてかをこそ哲学は問わねばならないだろう。弁証法についてのヘーゲルの理説の企てが挫折した以上、弁証法に対して取るべき関係をきちっと述べなければならない、」と。

その上で、こう言っている。
「弁証法とは首尾一貫した非同一性の意識である」、と。


第1部存在論との関係

ここではおもにハイデガーをとりあげ、さまざまな論点が提示されている。


第2部否定弁証法 概念とカテゴリー

ここで、一旦読書への集中を止めることにしよう。というのは、今大学図書館の地下空間においてこのブログを書いている。大学図書館の地下空間は極めて高いレベルの静寂空間であることが前提になっている。面白いことに、そういう空間であればあるだけ、それに我慢できないという輩もいるわけである。先般の映画鑑賞の際に、お行儀のいい観客の中に、ただひとり、食べ物の紙袋の音をガシャガシャといわせている人がいる話をしたが、今、ひとつ向こうの席で学習中の学生も、しばしば異常に大きな音で本を置いたり、奇妙な音を立てて、なんだかそれらが周囲への暴力的なものを予感させるような感じで、(私の)読書への集中をじゃまするのである。まあできの悪い、集中力に欠けた学生であることはまちがいないのだが、その本人、結構、本やらコンピューターやらスマホやらを机の上に積み上げて、いっぱしの研究者的な雰囲気だけは醸し出しているわけである。あたかも、俺はめちゃ勉強してるぜ、お前ら俺の邪魔すんじゃねえよ、的な雰囲気だけはすごいわけである。まあ、この手の孤独でかつあやうい人は、珍しいということはない。けれどまあ、こちらの精神的集中力には脅威ではある。なんかこわいからね。


と、こう書いているうちに、件の学生、席を離れてくれたので一安心。『否定弁証法』の探究は、後に持ち越そう。

ここまでのまとめとしては、① 自分としてはフランクフルト学派のヘーゲル理解がいろんな意味で興味深くて、それを知りたい気持ちから逃れられないこと。 ② ヘーゲルも(カントもマルクスも)、それ自身としては、ま、しょーもない部分のかたまりだけど、つっかかることによって自分が前に(または後ろに)進むきっかけにはなることは間違いない、という当たり前のことを確認したということかな。

こういう作業を在職中に進めたかったな。大学図書館も、定期試験のころになると、学生が大勢押しかけて環境が悪くなるけど、4月の今は静かでいいもんだ。まあ在職中はやっぱり4月には職場の外部でじっくり学習する時間はとれなかったからしょうがないけどね。

それにしても大学はありがたいな。卒業して、もう授業料を払っているわけではない僕のようなジジイにも知のおすそ分けをしてくれるんだからね。
じゃ、よいこのみんなも、早く大学に進めるように、願っているよ。

2017年4月20日 (木)

マルクーゼの何を参照するのか

まずは『ヘーゲルの存在論と歴史性の理論』1932, Frankfurt am Main、翻訳は吉田茂芳1980、未來社 を見たいね。そして、次にマルクーゼがアメリカに亡命し、コロンビア大学社会研究所に在籍して、英語で書いた『理性と革命:ヘーゲルと社会理論の興隆』1941,翻訳は枡田啓三郎他、1961、岩波書店 を参照しよう。この二つを踏まえてその後の書著作をみていけば、おおむねマルクーゼのヘーゲル学というもののありようが見て取れると思う。

ちなみにこの二冊のうち、前者は専門書でもあり、けっこう高価なものでもあるので、初めて参照するのもやむを得ないが、後者は、ずっと前に読了しておくべきものだったかもしれない。まずはこの後から書かれた『理性と革命』を先にみていこう。

以下は、『理性と革命』のまとめ。


序文の中で、ヘーゲル哲学 を Negative philosophy として位置付け、ヘーゲル死後10年の間に「理性を既定の事実の権威に従属させようと企てた肯定の(実証の)哲学 」Positive Philosophy  があらわれたことと対比している。そして、ヘーゲル自身が、アメリカ国民を「生き生きとした合理性の勝利」としたように、アメリカをいう国をファシズムに対する「唯一の未来の国」として期待していることも述べられている。


第1章 ヘーゲル初期の神学的習作1790-1800

ここを論じる時にマルクーゼは、かなり方法的な読み込みを行なっているように思える。つまりのちに体系的に実現する思想の端緒を読み込もうとしているかのようだ。例えば疎外Entfremdung とか、統一の力とかいったことだ。それとともに、「生」とか、「精神」Geist も。
また、「存在」Sein と「存在者」Seiendes の区別というテーマの指摘には、マルクーゼの師であるハイデガーの影響をみてもいいかもしれない。本質 ousia と個物の偶有的な様相 symbebekota の区別から、運動、統一、潜勢態と現実体を表現し論じるなどしているのは、ようするにヘーゲルの議論は実はアリストテレス存在論の近代合理主義的な再解釈だというのである。誠にもっともな指摘である。

第2章1800-1802
ヘーゲルがイエナで大学教師としての仕事を始めたのが1801年である。このイエナ時代の初期を特別に扱うところにマルクーゼの特徴がある。特にこの時期に書かれた『人倫の体系』System der Sittlichkeit について、マルクーゼは「ドイツ哲学でもっとも難解なもののひとつである」と指摘している。実に興味深い。

第3章 ヘーゲル最初の体系1802-1806

この時期にヘーゲルはイエナ大学で論理学、形而上学、自然哲学、精神哲学の体系を講義した。


第4章 精神現象学 1807年出版

1806年、イエナで精神現象学を執筆していたとき、まさにナポレオンがイエナにむけて進軍していた。そうした中で、イエナ体系の講義をふまえ、人間の経験の内在的な歴史を示し、(ここからは僕のことば)いわば歴史が完成の域に近づいているというある種の終末論的な予兆に支えられながら、「絶対的な否定性」としての主体が、歴史的な闘争(たとえば主人と奴隷の関係のような)を通じて「対立物を統一」し、「絶対知」にいたることを記述したのである。

第5章「大論理学」182-1816、 第6章政治哲学1816-1821、第7章「歴史哲学」

前回のブログで問題視した、個別国家と世界精神あるいは世界史との関係について、マルクーゼがヘーゲルの趣旨をはっきりと説明している。
(以下、引用)

・・・つまり国家は地理的な位置や民族の自然的・種族的・社会的な性質というような諸因子に依存していて、これが民族精神Volksgeist である。民族精神は歴史的発展の一定の段階にあらわれた世界精神であり、世界精神が世界史の主体であるように、民族の歴史の主体である。・・・ひとつの民族の歴史は自由の自覚に向かう全人類の歩みにどれだけ寄与したかによって評価されなければならない。

特殊な国家と世界精神の関わりも同様である。自由は歴史のさまざまな時代を通じてひとつではない。それぞれの時代にふさわしい真の自由が存する。ゲルマン民族にとっては、宗教改革を通じて人間の本質的平等を認める自由を生み出した。そして立憲君主政体こそ、その社会形式を表現し、完成するものなのだ、というのがヘーゲルの議論だという。

マルクーゼは、第7章の最後のところでヘーゲルの最後の論考、イギリスの選挙法改正に関する議論をとりあげ、議会の権限強化が人民の力を解き放ち、混乱をもたらすことへの「恐怖と不安」を表しているという。そこには「疑惑と諦め」(ヘーゲルがゲッシェルという人にあてた書簡にでてくることば)があるという。

以上、理性と革命におけるヘーゲル学説の説明のところをまとめた。

今日はここまで、良い子の皆さんさようなら。

ヘーゲルの継承者はだれか

さて、すでに触れたように和辻哲郎が1930年代以降、ある種のロマン主義的冒険に打って出た時、ヘーゲル『法権利の哲学』の理屈の一部が具合のいいように利用された。

これに対するヘーゲル学的な論難を構成するのは僕のねらうところではない。しかしながら大づかみにそれを言うならば、ヘーゲルの論理学をうまく利用するなら、和辻には、ヘーゲル学そのものに対して、「否定」をつきつけることなく利用していることが問題だ、ということだけを指摘しておこう。ヘーゲルが常に期待しているのは、主観・客観の統一、そして対立・否定を含む全体性への接近なのである。

今日の標題に書いたのは、そのような本来のヘーゲル学を継承したのは誰か、という問いかけであり、その答えをこれから展開しようとしているわけである。そこで僕が目星をつけているのが、すでにこのブログで何度も名前だけあげている、Herbert Marcuse である。このブログでは現代の文化に関連してメディア環境などが「1次元的」になっていることを文脈のなかで指摘してきた。常に僕の中では、彼の『1次元的人間』 One-Dimentional Man ; Studies in the Ideology of Advanced Industrial Society, 1964. が念頭にあったのである。

で、今回の試みはマルクーゼをヘーゲルの継承者として見てみようということである。
(次回に続く)

2017年4月18日 (火)

というわけで、の(3)、の続き

322節から328節の国家の対外関係に関する議論をすこしみておこう。323節の戦時国家の絶対性とはどういうことか、みておこう。すると、これも弁証法的な議論であって、ようするに国家が他者つまり他の国から攻撃、つまり否定的な関わりを受けることが、国家の現実的無限性を露呈させるのだ。戦争を通じて、習俗的なつまり国民道徳みたいなものが強化される。これを実現にするのが「剛気の身分たる職業軍人である。剛気はそれ自身では徳のひとつにすぎないが、それに内容を与えているのが「国家主権」だ、というのだ。ちなみに、328節では剛気の自己撞着が論じられていて、そこではあまりスカッとした議論にはなっていない。

特に327節、328節のあたりの文面は、和辻が説く、全体のために命を捧げることによって個々の行為が永遠性を帯びる的な議論を思い起こさせる要素に満ちている。(剛気といったものは)、「完璧な服従と自分に固有の意見や理屈立ての断念であって、自分に固有の精神の不在なのであるけれど、同時に精神と果断さのもっとも集中的な臨済である」などと、述べて、ついで、「死の意味づけ」を論じて、「剛気」があくまで全体の一部であることが強調されている。

このあたりも意図的に曲解すれば和辻の説く「国家のために死ぬことが、すなわち生きることなり」、みたいに読めなくもないが、まあちょっとむりがあるかなあ。

以上、補足でした。じゃ、いい子のみなさんまたね。

というわけで、の(3)

というわけで、今日もまたまた懲りずに大学図書館にきているわけだ。先週の半ばは、ちと軽井沢という場所の、万平ホテルの裏あたりを散策しながら、戦前から続く、ブルジョワジーの必須専修項目としての避暑地の生活といったものについて、あれこれ思いを巡らしたりもしたのだが、それについてはまだ纏まっていないので、後日の課題としたい。

さて、今日も、『法権利の哲学』において、ヘーゲルが国家というものをどのように論じているのかをみてみたい。まあ、まず面白いのは、268節かな。

愛国心一般というものは、いってみれば「信頼」みたいなものだ、国家活動の諸制度の結果にすぎないんだ、と言っている。生活諸関係のなかにある心情に基づく並外れた献身とかを、それ自身が何かの出発点になると考えたり、何か主観的なものだと考えたりするのは要するにただの思い込み、「臆見」にすぎないのだ、と。


続く269節では、心情が限定された内容を受け取るのはあくまで国家の有機組織、コンスチチューションからなのだ、と言っている。

270節は、国家と教会との関係。あとは、本の終わりまで、ぐだぐだと君主権について、立法とか選挙とかについて記述しているにすぎない。

諸国家の関係としての国際関係につい論じたあと、340節に至り、次のように述べている。

諸国家は相互の関係としては特殊国家として存在する。国家相互の関係の中で、めまぐるしいゲームが展開し、国家の習俗規範の全体が偶然性にさらされる。諸民族の諸精神は有限だが、そこから世界精神たる一般精神が生み出され、この一般精神は世界法廷としての世界歴史においてみずからの法権利を行使する。

つまり、諸国家のありようは、世界歴史というヨリ高い見地の実現に向けたゲームにさらされるのだ。

こうして議論は最終的には世界歴史の展開を論じる。(341節から360節まで)。


世界歴史の領域には4種類あり、1 東洋的、 2 ギリシャ的、 3 ローマ的、 4 ゲルマン的、このそれぞれについて簡単に触れて、『法権利の哲学』は終わる。なんか最後は尻切れトンボである。

個々の諸国家群が世界歴史の法廷のもとで争う時にどうなるのかは、まったく書かれていない。

今日の引用では、ヘーゲルは、直接的心情的な愛国心といったものには、まるっきり価値を認めていない、という記述にひとまず注目しておいたわけだ。

とりあえず、『法権利の哲学』の最後のあたりを概観した。ここで一旦切るが、321節から327節に至る国家間戦争と国家総動員、内的信念の位置付けなど、興味ふかい論点があり、次はそこを見ていこう。


なお、今回は図書館所蔵の三浦和夫他訳の未知谷版 『法権利の哲学』1991年、を参照したが、なかなか読みやすいね。三浦というひとには、ずーっと前から、半世紀近く前の学生時代にドイツ語の授業を受けたように思い込んでいるのだが、多分いつもの勘違いだと思う。

2017年4月12日 (水)

それでさあの続き

LA LA LAND がいろんな映画の引用からできていることの関連で、僕としては、最後のほうでMALHOLLAND DRIVE を想起したね。まあどこがそうなのかは、みなさんに判断してもらうこととしたい。で、MALHOLLAND DRIVE は、ハリウッドに憧れてアメリカの地方からやってきた女性(ナオミ・ワッツ)とその理想の分身をめぐる物語であり、彼女の失意や映画製作の裏側とかスポンサーとの関係とかが描かれていた。つまりこれも、ハリウッドという映画製作の現場への自己言及的な身振りが中心になっていたんだ。そしたら、その大元は僕が未見の名作、『サンセット大通り』なんだってね。
『サンセット大通り』がハリウッドの内幕を暴く、的な「自己言及的な作品」だとすると、今度はそれに対するオマージュだったりするような作品を作る人がいて、(自己言及を含む作品を含む自己言及)、さらにその作品に対して言及する、みたいな三重の入れ子構造みたいな作品を撮ることができるみたいなことができるところがまあ、面白いというか、大人を刺激するところなんだな。

普通は自己言及的なループは衰弱の証なんだけど、そうじゃないところがすごい、というか世界資本主義の象徴的センター、ハリウッドのすごいとこだな。前項に対する付け足しでした。じゃ、良い子の皆さん、またね。

それでさあ

次に2月の終わりころに見た2本の映画についてもひとこと書こうかな。イメージフォーラムでやっていた『タンジェリン』という映画がひとつ、もうひとつはメディアで宣伝しまくっている『LA LA LAND』ね。これ、たまたま、どっちもLAことロサンゼルスという土地が舞台、いや舞台というより、映画の中心的な話題なんだよね。ロスといっても、ハリウッド、つまり映画作製の舞台というか、日本流にいえば芸能界の登竜門になっている場所であることがそもそものお話の前提になってるわけよ。それで、まあ僕としてはみんなには『タンジェリン』を勧めたいんだ。

『タンジェリン』、この映画に出てくる人は大部分がいわゆるLGBTの方々なわけ。で、どちらかといえば社会の周縁部にいる人たちなわけよ。それで主人公の親友、あ、この人ももちろんLGBTね、やっぱりこのロスという場所で何とか芸能界で実績を作りたいと思ってるんだけど、ぜんぜんうまくいかないという話ね。これにアルメニア人の家族なんかの話がからみながら、ロスのストリートのリアルが、描かれてるわけ。この映画は全部iPhoneで撮影されているところがミソで、繰り出されるスラングだらけの会話のスピード感もだだものじゃないし、夕陽に照らされた街路のようすもリアル感満載。ようするに、これこそロサンゼルスの「今」を切り取っているナア! と、そういうことなわけ。
で、自分でも面白いなあと思ったのが、ほぼ同時期に、件の『LA LA LAND』を見たわけよ。こっちも芸能の世界に憧れ、サクセスを目指す「男女」が主人公で、それなりの塩辛さもありながら、それそれの道を目指す話ね。こっちは大勢のひとがあれこれ言っているから僕はとくに意見は言わないよ。ただ、これって、完全に映画的夢の世界なんだよね。映画を見にくる人は、最初っからロスのリアルなんかには興味がなくて、もういままでに何度も映画になった、設定。つまり女優としての成功を目指してハリウッドに上京してきた人々の成功と失意をめぐる物語を、わざとなぞってみせるという話なんだよ。つまり最初から出来上がった世界をなぞってみせることで観客には現状維持の満足を与え、一方では与えられる限りの「夢」の世界を歌どダンスと音楽と映像で与えるというものなんだ。それがキッチュにならないのは、監督としてエクスキューズをいっぱい用意しているんだよね。つまりほとんどのショットが過去の作品へのオマージュであるか引用であるということがエクスキューズになってるし、シネフィルに対して、さまざまな言及のタネを供給するという、まあかなり凝った企みを展開しているからなんだ。いずれにせよ、LA LA・・は、観客にとってはすべて現状維持の小市民的な世界観に切り込む不快な要素をそぎ落として、その上でキッチュになったり子供っぽくならないようにいろいろな仕掛けを取り込んで、作品世界を作り出したところが、まあ「たいしたもんだ」と、僕なんかも納得しちゃったわけ。ほんと、これほど判りやすいのはないよね、最初の高速道路のダンスシーンなんか、めちゃくちゃ気合の入ったシーンであって、とおくのダンサーもマジで気合の入ったダンスをしているすごいショットなんだよね。「これでつかみはOK!」というセオリー通り感が満載なわけ。
ま、そういう意味でいうと最終的には、大いに感心したし、映画的楽しみの本流がこれだ、とはおもうけど、なんか「あざとさ」みたいなものも見え隠れしているよな。でも監督は年齢が30くらいらしいから、それをきいちゃうと、「うーん、すごいな」の一言になっちゃうわ。

というわけで、まあ、みんなには、所詮、ハリウッドのメジャー映画は、現代社会の本質を考えさせるよりは、社会のリアルから遠く離れたファンタジーを提供することから逃れられないという事実ね。それだけはきちんと意識して、ファンタジーを楽しんだらいいんじゃネ? そんな事を言いたいね。
「なんだじじいそんな事は先刻承知の上だぜ」、などと冷たいことは言わないでね。じゃ、また。

2017年4月11日 (火)

というわけで(2)

さぼっているとすぐに一週間たってしまう。ここで皆さまにご報告。エドワード・ヤンこと、楊徳昌監督の『クーリンジエ少年殺人事件』(1991)、デジタルリマスター版3時間56分、見ました!



いやー、見てる最中にトイレに行きたくなったらどうしよう、と行く前から戦々恐々で、気を引き締めて席につきました。が、始まってみればすっかり映画的世界に引き込まれ、映画的時間を生きる幸せをかみしめるという結果になりました。ほかの観客の方々も気合を入れて見に来ているみたいで、上映中にトイレに立つ人もなく、ただ一点、ななめ後ろの爺さん(?)と言っても70よりは前みたいな爺さんが大事なところで食い物の袋を開けるガサガサ音をたてて、近くの別の客に「うるせえよ」と注意されていた、ということはありましたが、概して、客席も画面が見やすい映画館で(角川シネマ有楽町)、集中してみることができました。



舞台は台北、1960年ころのこと。戦後台湾の歴史は結構きびしいものがある。日本の統治が終わった台湾に、こんどは大陸から国民党とそれに従う人々が流入し、社会の中にいろいろな言葉にできない軋轢が生じていた時代。そういう時代の雰囲気を全体として記述しようという映画である。大陸から移住してきた几帳面な父親のいる6人(?)家族を中心に、学校の友人、教師、近所の不良グループ、近所の商店主など大勢の人がでてくるのだが、いかにもそれぞれの人物がそこにいることが必然的な感じになっている。主人公の少年が少女を刺すところまでもっていく、そのストーリ-の自然なもってきかたも、あまりにも見事だとしか言いようがない。





ここからは、感想ね。 キリスト教の聖書の中に「なんでも時がある」といのがあるよね。蒔くのに時があり、刈り取るのに時がある、壊すのに時、建てるのに時、戦いに時、和解に時・・・・みたいな。映画を見るのにも時がある。その内容が理解できるまでに自分が成熟しているかそうではないのか、見る人の精神状態も影響するだろう。心の貧しい人にとっては豊かな内容もごみの山にしか見えないだろう。



そういう意味では、ぼくはじじいになってこの映画を見れてよかったかな。前にも書いたと思うけど、映画の機能の一つとして、異なる文化のインパクトみたいなものがあると思うんだけど、この映画は、ある社会の全体の雰囲気を描き出すという目論見があって、それがすごく成功している。それを可能にしているのが、一人ひとりの登場人物の個性が本当にきちんと描き出されていることね。





あと、もう一つ思ったことは上映時間のことね。映画って、長ければ長いほどいいんじゃないかな。長ければ長いほどその世界に浸れるとおもうんだよね。



ベルイマンの『ファニーとアレクサンドル』は、もともとテレビの連続ドラマとして作られたということもあって約5時間くらいの長さで、映画館ではほぼ連続してみるんだけど、これも良かったわ。



なんで世の中の映画は2時間足らずで終わっちゃうのかな?ていうのは根本的な疑問だな。かつてはフィルム上映だったから、フィルムリールの物理的な量が上映時間の上限を決めるひとつの目安になったと思う。いまはデジタルデータで物理的な量の問題はいかようにでも解決できるわけだから、映画はもっと長くあるべきなんじゃないかな。それを二時間くらいの枠に押しとどめているのは、なんか映画外的な、(ようするに資本主義的な)要求なんじゃないかと思う。



前にツインピークスを何話も連続してみたことがあったけど、一話終わって次の回が始まるときの出のところの滝やらツグミ(?)やら製材所やらバダルメンティの音楽と一緒に流れるだけで、マジカルな世界に引き込まれたわ。



というわけで、ニューヨークタイムスの批評ではないけれど、「この映画には全てがある。人生の一日を費やすに値する3時間56分だ」、はまことに適切な言葉だな。



3時間56分は全然長くない!



















2017年4月 5日 (水)

というわけで

さて私、HATOこと早川トオル、ただいま出身大学の図書館に来ております。今日で連続3日目となります。地下一階の閲覧席において、iPhoneといままで使った経験が少ないアップルキーボードを持参しまして、ブログを書くという実験をしております。

んなわけで真っ先に困ったのが、cocolog の本文入力画面が横につかえないようであること。ま、それは我慢するとして、先に進みましょう。

この春以来、時間が空いたので、結構映画を見て来たこともあり、その報告もしたいのだが、今日はせっかく図書館にいるので只今勉強中の事の一端をご紹介。

昨秋来、昭和10年代思想の点検をしている。特に和辻倫理学のロマン主義的傾向を指摘してきた。和辻は、個人主義を否定することによって国家という全体に向かうことを強調したのだが、そのような否定性を通じた肯定への道を、和辻が自信を持って強調するということの背後には、ずばり、ヘーゲル哲学の学習、摂取ということがあるのではないか、と私は考えている。

もっとも、和辻がどこでどのようにヘーゲルを学んだのかを追求することに興味があるのではない。もうすこし幅広く、ヘーゲルの弁証法の論理を私自身の中で明確にしておきたいと前々から思っていたわけで、大学図書館に置かれた多数のヘーゲル翻訳を参照しながら、その辺を勉強しているというのが現在のところである。

それにしても人生は短く、学的真理の道は果てしない。そんな中で、何事かを述べようとする試みは、多かれ少なかれ、予断や跳躍を伴うものにならざるを得ない。

和辻は、昭和10年代という背景の中で、『倫理学』や『続日本精神史研究』の読者に向かって「個人の命を捨てて(個人を否定して)、国家という全体(共同性)の中で生きる」道を呈示しようとしたのだが、その場合、和辻の頭にあったのは、あくまで欧米資本主義国家群と対立している「日本国家」という純然たる部分的存在なのであって、そのような「部分」を「全体性」として言いくるめようとするところからして、理屈以前の全くの詐術のようなものでしかない。
そもそもそんなことがヘーゲルの主たる論点であったはずもないのだ。
和辻の誤読は、田舎者の知識自慢のような底の浅さを示していて、それ自身が当時の知識の限界でもあり、もうすこし言えば、(普遍的な)世界資本主義が田舎者を追い詰める常套手段にまんまと乗せられて自己破滅にいたるすがたを露骨に示しているのだと言えなくもない。

昨日学んだヘーゲルの指摘を諸君に紹介しよう。
ヘーゲルが突然の死を迎える1831年のベルリン大学における論理学講義から・・・

客観性に対する思想の態度としての直接知のあり方について、ヤコービの指摘についての一節。

ヤコービはカント哲学が実践の領域で義務としての義務を原則としたことに対して、激しい態度をとった。善のための善は、カントにあっては衝動や性向といった感性的なものに対立するもので、カントはこれに固執した。一方ヤコービは人間の個性における徳や善を主張した。ヤコービは人間の感情や習俗Sitten 一般に信頼を置いた。ペルシア王クセルクセスがあるラケダイモン人たちに自分の側につくように要請した時に、ラケダイモン人たちは、彼らの義務がその要請に反するからという理由でクセルクセスと対立したわけではない。その要請が彼らの習俗や習慣に反したのだ。彼らはその習俗においてラケダイモン人として一体なのだ。彼らには義務を自覚するような道徳性Moralitaet はそんざいしない。彼らは義務に対立したのではなく、習俗にかなっているsittlich だったのだ。

ヤコービの主張を積極的に言えば、真理は精神にとって存在し、私たちは神を直接的に知るということだ。法や習俗についての確信があるのと同じように私たちの中には神の表象と神についての確信がある。真理とは直覚知なのだ、と。

このようにヤコービは考え、媒介された知の「制約された連鎖」を退けるのだが、大切なのは媒介されたものを、他者を通してる進むことなのだ。 云々・・・・

要するに直接性は大切だ。しかし、直接性も教育とか教養によって媒介されている。だからこのような直接性の立場と媒介の対立という諸前提は廃棄されなければいけない。
どのようにしてか。対立した諸規定を含む、思弁 das Spekulative を通してそれが可能になる。弁証法は「否定的に理性的なもの」 das negativ Vernunftige であり、矛盾の意識を通じて具体性という矛盾の解消にいたる。つまり「肯定的に理性的なもの」 das positive Vernunftige 、矛盾の「和解」なのである。


引用ばっかり長くなったが、事は簡単である。直接知の大切さが一方にある。しかし、直接知といえども媒介されている。媒介の迂路をだどる思弁が大切なのだ。

そのノートの表題にもあるとおり、「哲学の関心は事柄そのもの」であって、「思考と存在は直接にひとつ」であること、このことから、論理を構成していこうというのである。


引用の趣旨は、カント流の厳格主義の難点を指摘しながら、直接性の立場を、「習俗」をめぐる議論を通じて述べている面白さである。

和辻の事からはなれてしまってるじゃないのよ、という反論はちょっとお待ちを。そのことを述べようと思っておおきく迂回しているので、これもひとつの「媒介」として許容してもらいたい。
ヘーゲルが『精神現象論』のどこかで言っているように、ピストルを撃つみたいに、スカッとはいかないのだよ。それが思索のみちなのだよ。ゆるしてね。今日は大学図書館閲覧室で書いているので、なんかアカデミックなかんじになったな。じゃ、またね。







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