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2017年4月26日 (水)

アドルノ『否定弁証法』について

第3部 「いくつかのモデル」は、言って見れば否定弁証法のケーススタディのようなものなのだろうか。Ⅱ 世界精神と自然史 ヘーゲルへの補説 を読み進むうちに、ヘーゲルについてあれこれ論じながら、結局最後のところは随分と思いきった解釈に到達しているのがわかった。
たとえば『法権利の哲学』での中で、憲法について、「一般に憲法は作られたものというよりは、むしろ絶対的に在るものであって、神的で永続的なものとして考察されなければならない」と言っていることを取り上げ、自然の直接性を媒介とした歴史世界の産物としての憲法が、ここでは自然として考察されること、つまり、歴史的領域が自然としてとらえられているとする。

「彼の「世界精神」とは実は自然史のイデオロギーだ」

というのである。

「偶然的なものという本性を持つものには偶然的な出来事がおきる。まさに宿命こそ必然性である。一般に概念や哲学は、偶然性の視点をものともせず、仮象としての偶然性の中に必然性を認識するのである。所有とか生命といった有限的なものが偶然的なものとされるのは必然であり、それが有限的なものの概念だからである。 この必然性は自然の威力の姿をしていて、(自然に従えば、)すべて有限的なものは死すべきもの、無常である」

ヘーゲルは歴史哲学の根底に自然や自然の威力をおく。ヘーゲルは世界史の主役である国家の働きを「第二の自然」と感じたのだが、さらにそこで第一の自然そのものを賛美したのだ。自然を絶対的に第一のもの、直接的なものとして問うこと自体が欺瞞である。「人為的なもの」と「自然的なもの」 ( テセイとピュセイ/. Θεσει Φυσει ) をただ二分法的に云々するのでなく、歴史的とされるものをその歴史性の深いところで自然としてとらえ、また自然的自然を歴史的存在として把握することが重要なのである、と。

自然と歴史が通約可能になるきっかけは、「無常」Vergaengnis である。

「・・・自然の顔面には無常の絵文字で「歴史」と書かれていて、バロック悲劇によって舞台に乗せられたこの自然=歴史のアレゴリーの顔は、じっさいに廃墟として眼前にあるのだ」(ベンヤミン)

哲学は、つねに新しい予兆であるあの絵文字を、ごく小さなもの、衰滅Verfall によって粉々に砕かれた断片のうちに読み解かれなければならない。ヘーゲル哲学は絶対者の生命と有限者の無常の全体を同一視するのだが、(そのほとんどはカスなのだが)そのむこうにかすかな見通しを与えているのだ。
(以上、引用終わり)

よくわかるね。

まあ、この第3部Ⅱ は、こうして最後のところは論旨がはっきりしてくるわけだ。


さて、第3部のⅢ 形而上学についての省察 は、冒頭から、きわめて激しい議論が展開する。この部分だけでアドルノの思想が面白いくらい十分に展開しつくしているようにも思える。


1 アウシュヴィッツのあとでは、我々の生存が肯定的なものであるといういかなる主張もたんなるおしゃべりに見え、そうした主張は犠牲者たちに対する不当な行為であるという抵抗感が沸きおこらざるをえない。形而上学への能力が麻痺してしまったのは思弁的な形而上学が経験と一致するための基盤が現実の出来事によって打ち壊されてしまったためである。

アウシュヴィッツのあとではもはや詩は書けない」は誤りかもしれないが、けっして誤った問題でないのは、アウシュヴィッツのあと、まだ生きることができるのかという問題である。 殺戮を生き残った者につきまとう、激烈な罪科の思いである。
このような時代には、思考が真であるためには、思考は、思考自身に対抗して思考しなければならないのである。
概念化を逃れていくものたちの中で最も極端なものを基準にして自己を測るのでなければ、思考は、「伴奏音楽」、SSが好んだ音楽と同じものになってしまうだろう。



2 子供の時、あるホテルの持ち主でアダムという男がいて、ホテルの穴からネズミが出た時、子供たちがみている前でネズミを捕まえ、叩き殺してしまった。それ以来その子供は、最初の人間のイメージをこの出来事にしたがって作ることになった。このことを忘却することが文化の勝利なのだろうか?

文化が悪臭を忌み嫌うのは、自分がそれを発しているからではないか? ブレヒトが見事に指摘したように、「文化の宮殿は犬の糞からできている」からではないのか?
アウシュヴィッツ以降、文化とはようするにゴミ屑のことである。文化がもっともらしくいう自立の中には非−真理がある。文化の維持を論じるものは野蛮の一味に与するものであり、文化を拒むものは直接に野蛮を促進することになる。では沈黙すればなんとかなるか?沈黙はただ主体の無能っぷりを合理化するに過ぎないだろう。

文化の持つアウラとは、ようするに暴力の原則だ。

3 ハイデガー流の「死の形而上学」がこうした状況に応えることができるのか?


死そのものを歴史的複雑な絡み合いから取り出したり、生物学的な原現象としての死なるものを切り出すことはできない。
「不滅性」とか「不死性」とかいった「理念」をかりに形而上学としてもいじすることができるのだろうか?

4 プルーストの叙述が示すように、いかなるものにも解消し難い絶対的に個別的なものを見ることによってのみ、まさしくそのものがかつて存在し未来にも存在するだろうと希望することができる。この絶対的に個別的なものを追い求めることによってのみ、概念は充実した内容を得る。「幸福」はこのことと関係していて、形而上学的経験の中でむなしい願望以上のものである。


形而上学的経験とは何か?それはベルクの『ヴォツエック』でいえば、「空しく待つ」ことを表現する数節の楽音で表現されているものだ。


5 形而上学的カテゴリーが生き残ってるかんじがするのは、「人生の意味への問い」みたいな形だ。人生の意味なんてものを突き詰めること自体が死なんだ。
また「一切は無である」なんてのもくだらない。
ベケットの形象世界では、世界は強制収容所であり、もはや何者も存在しないのだが、その欠如の裂目から何者かがたちあらわれている。

そのあとは、6〜11で、カントの断念、ロマン主義的伝統と自由、スピリチュアリズムとは精神と物質の二分を説く非−真理であること、いろいろごちゃごちゃ述べたあと、 12 弁証法再考で、アドルノは珍しくも、非常にポジティブな形で「崩壊の瞬間における形而上学的と連帯する思考」、すなわち「同一性の欺瞞を打ち砕く思考」の可能性を提示している。

ここのところはもう一度じっくり検討してみよう。

今日はここまで。よいこの皆さん、さようなら。



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