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2017年5月19日 (金)

せっかくなので 2

『アメリカの国民性』

1・2 節 アメリカの国民性の基調としてのアングロ・サクソン的性格 、ほか
アメリカへの植民が行われた16世紀末から17世紀を代表する二人の哲学者の考え方が大切だ。それはフランシス・ベーコンとトマス・ホッブズである。ベーコン哲学は文明の意義を自然支配にのみ認めた。そしてそのための機械文明を推進しようとした。ホッブズは、自然法と契約の考えを重視した。そのことは平和がえられなければ 戦争を正当化し、また契約を守ることを正義の根拠とした。この二つの考え方がアメリカに移った。

3節 アメリカにおけるホッブス的性格の展開
イギリス人が原住民を殺したのはスペイン人のようにではなく、はるかに冷酷無慈悲、悪辣であった。それは原住民が契約を守らなかったからである。彼らは契約とか法律とかの名の下に「堅実に」原住民を殺戮した。
4節 アメリカにおけるベーコン的性格の展開
アメリカの植民は風土との戦いであった。新しい衛生法が考えられ、肉体の鍛錬が自覚的に発明工夫された。そして自然を克服するためにもう一つ、機械力の使用が重視された。その機械文明の先駆者はベンジャミン・フランクリンである。こうしてアメリカ人は機械文明の最先端に立ったが彼らは機械の奴隷であって、そこには文化はない。機械の支配のもとでは人間精神は機械に適応し、すべては量で表され数字で表される。

5節 開拓者的性格
ベーコン的なものとホッブス的なものは開拓の中で結びついた。それは原住民との戦いであり、自然との戦いであったから。
元来は沈着で辛抱強いアングロ・サクソンの性格はアメリカでは
軽躁で向こう見ずなものに変わってしまった。アメリア人にとっての「幸福」とは強烈な刺激や精力の放出である。行動の喜びと緊張の喜びとも言える。アメリカのスポーツでは人々は力を出し切ることを好む。力を出し切ってぐったりするのが彼らには快感なのである。それとともにそこから立ち上がる時の爆発を必要とする。「アメリカでの生存は爆発の連続から成っている」。
アメリカ人にとっては強烈な刺激のために働き、機械を作り、自然を支配しようとする。彼らには事業の究極の意義は、失敗であれ成功であれ、その刺激の強さであり、その意味では賭博の魅力と変わらないい。
いまやアメリカ人は賭博的にアジアに進出し、アジア数億の人間の運命を蹂躙しようとしているが、その本質は、厚顔な自己正義感に浸りつつ、機械力をたのみとする賭博的な事業でしかない。彼らは「量」と「数字」で「力を出し切ろう」とするが、「道義的精神力」に欠けている彼らの運命としてその先にあるのは、「神経衰弱」でしかない。「焦燥しつつ一切を賭けてくる賭博者は案外もろく倒れるものである」


以上、まとめ終わり。


どう?やっぱり変じゃないい? 最後のところなんか、今の北朝鮮の放送みたいな感じがする。そもそも「焦燥しつつ賭けてくる賭博的な」戦争に打って出たのは、日本の軍部だったんだからね。それに、結局「量」を可能にする科学技術や経済力で日本はアメリカに負けたことを考えると、なんかがおかしいことはすぐに感じるよね〜。

で、こうやって纏めながら、和辻の発想のどこが問題か、かなりはっきり見えてきたよね。和辻は「文化」とか「精神」とかをなんかとても意味のあるものとするんだけど。それが可能になったのは大きな文明の力の中だという大切な事実を常に見落としているんだよね。経済の力とか、国家の法的な構成とかということも、「人倫」に数えなくちゃいけないのに、和辻はそういうのは頭っから無視してしまう。カントが「人倫の形而上学」を考えたり、ヘーゲルが「法権利の哲学」を考えたりするときに、常に人間社会を構成するさまざまな原理を念頭においていたことが、和辻の論説からはまるっきり抜け落ちちゃってるんだ。和辻の頭の中に出来上がった、一定の風土的な規定のもとにある「文化的共同体」だけが一人歩きして、社会の実体であるかのように考えられている。上部構造の側から下部構造へというアプローチを否定するつもりはない。しかし、和辻の議論では政治的、社会的さまざまな共同性の枠組みがいっきにすっ飛ばされて、ひたすら、「道徳的共同体」のイメージばかりが追求される。

こうなってしまうのは、「どうしようもない独りよがりのブルジョワ性」のゆえか、それとも、「観念的な共同体にすがるロマン主義的偏向」のためなのか?


そうした問いに答えるためには、もう和辻のテキストに沿っていっても無駄であろう。最終的に「近代の超克」という「空語」のなかにその典型をみいだす思想の諸傾向、さまざまな登場人物、イデオロギーの配置、具体的な事件、そうしたものの中に、この時期の日本思想をのみこみかつ現代にまで通底している根本的誤謬とそこから生じる権力諸関係の全体を読み解いていくのでなければならない。

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