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2017年5月29日 (月)

まあ、暑くなってきたね

この週末に、読んだ本の感想からいこうかな。

まずは 、猪瀬直樹 『ミカドの肖像』(猪瀬直樹著作集5 2002年5月 小学館)

もとは小学館「週刊ポスト」に1985年1月から翌年の8月1日号まで連載された記事だ。まだ時代は昭和で、世の中はバブル経済前夜。世界ではいろんなことが起きてるけど、日本はまだまだノンビリしていたころのものだ。で、この週末に読んだのは、そのうちの第一部のところ。主題は、西武鉄道グループとは何であり、何故その経営するホテルグループが、あの菊のマークを持つ「プリンスホテル」という名称なのか、という話題。

この本は当時まさに飛ぶ鳥を落とす勢いの西武鉄道グループの始まりを論じ、多くの人に読まれたものだと思う。僕は気になっていたけど読んでいなかった。「週刊ポスト」って「週刊現代」とならぶ「おっさん雑誌」(ゴメンなちゃい)だとおもっていたし、連載していた頃は、そのすぐあとに昭和が終わっちゃうなんて全然予期していなかった。

それはともかく、今このブログの流れから考えると、この30年前の著作がずいぶんと面白く、また役に立つ。まずは「軽井沢論」として。軽井沢が現在のようなブランド価値を確立するまでの一端が、『ミカドの肖像』第一部から、実によくわかるからだ。それに猪瀬の書きっぷりは、「週刊ポスト」の一般読者を想定しながらも、質を落とすことなく、さまざまなアクチュアルな当事者たちへの取材を素材として、実にいろいろな事実が話題になっていて面白い。

それからもうひとつ。軽井沢というブランドがどう打ち立てられたかとは別に、そのブランドの消費者論というものが含まれていることだ。消費者とは、「ミドルクラス」の都市の大衆であり、そのような消費者があらわれることと、軽井沢の発展とは同じ事柄の両面をあらわしている。

猪瀬氏の狙い通り、「ミカド」という「空虚な中心」を媒介にしてひとびとの願望や欲求がその周りをめぐり、ホテルができ、「軽井沢」というブランドができ、昭和の大衆消費社会が回っていく、複雑な出来事の糸のより合わさっていく様子の一部が、実にくっきりと叙述されている。
ぼくもまた昭和時代の人間として、「美智子様ご成婚」をテレビで見た人間として、またはからずも「旧赤プリ」の木造洋館で挙式・披露宴をしたらしい記憶のある人間として、「ナルホド、ガッテン!」印をいくつもあげたくなる内容である。


事実関係の記述はこのブログの求めるところではないし、猪瀬氏の取材が明らかにした内容は多かれ少なかれウィキなどの記述にも反映されているので、内容の紹介はだれかに任す。

感想をいくつか書いておく。まず第一にプリンスというブランドを作り出した、堤 康次郎 1889-1964 という人間のとてつもないエネルギーにびっくりする。

滋賀県出身の若造が、早稲田大学卒業の2年後に、すでに現在の中軽エリア、千ヶ滝地区を中心とする広大な土地を手に入れ、別荘地として売り出そうと活動をはじめたのである(大正4年)。
碓氷峠の新国道開通は明治17年(1884)、横川-軽井沢間の信越本線がアプト式鉄道として開通したのが明治26年(1893)。アレクサンダー・クロフト・ショーが軽井沢に最初の別荘を持ったのが明治21年(1888)。軽井沢は外国人の別荘地として発展を見せ始めていた。いっぽう中軽井沢(沓掛)は草津温泉へむかう客の中継地となるものの、草軽軽便鉄道の一部開通が大正6年(1917)に迫っていた。村の将来を慮る東長倉村村長、沓掛(現在の中軽井沢)在住の土屋三郎は3年かけて村民を説得し、ついに大正6年12月、村民の意見がまとまった。大正7年から本格的に別荘地の開発が始まった。

いっぽう康次郎は、大正8年からは箱根強羅の土地を買い、開発をはじめる。9年箱根遊覧船会社設立。10年湯の花沢買収。万座開発にも着手。11年目白文化村分譲。12年駿豆鉄道。軽井沢グリーンホテル開業。渋谷百軒店開発。大震災後は、池田山、島津山、西郷山、徳川山などの分譲に着手。13年には衆議院議員に当選。大泉学園都市開発着手。小平学園都市開発着手。15年国立駅建設、一橋大学誘致。学園都市建設・・・というふうに矢継ぎ早に事業を展開させてゆく。

ちなみに康次郎が最初に手に入れたのは現在の国道141周辺である。千ヶ滝西地区の付近は元来は雨宮敬次郎が開発した場所である大正11年に雨宮から土地を提供されてそこに朝香宮家が別荘を立てた。康次郎は雨宮敬次郎から後に一帯の土地を手に入れた。そして朝香宮の別荘を堤が手に入れたのは戦後の昭和22年のことである。朝香宮別荘は占領軍の施設として提供され、次いで皇室専用の施設として稼働することになったそうだ。

ちなみに雨宮敬次郎はもともと生糸の貿易商であり、アメリカで見聞した開墾事業に想を得て、旧軽井沢地区を開発し、あわせてカラマツの植林によって、今日の軽井沢の景観の基を築いた人物である。

第二次大戦後に康次郎は、皇籍を離脱した都内の旧宮家の土地を買収することに力を注ぎ、後にそこにプリンスホテルを建設することになる。皇族や華族の土地を買い集めて、再開発する手法は戦前からのものといえるだろう。その辺のブランド価値の利用を康次郎がどのように考えていたのかは、この本では特に書いてない。

軽井沢に皇族が滞在することのプラス効果はすぐに表れた。昭和34年の「皇太子御成婚」だ。
軽井沢=高原=テニスコート=避暑地の恋=身分を超えたもの=戦後民主主義の価値観、こういう連想項目と、高度成長のもたらす大衆的な余暇時代の到来とが相まって、軽井沢というブランド価値がほとんど「神話的」次元にまで高まっていくことになるのだろう。

というわけで、まずは『ミカドの肖像』という本の第一部が、このところ問題にしてきた「軽井沢論」のど真ん中にはいる第一級の基礎資料のひとつになることとなったわけだ。

他の本のことも書こうと思ったけど、今日は十分に長くなった。歯が痛いので、歯医者に予約入れようと思ってたのに、これ書いてて忘れちゃった。
前回のアウトサイダーアートに関する話ではないが、「ブログを更新しようとする僕の欲求はとても止めることができなかった。それはやむにやまれぬものであった」みたいなことになっちゃいそうだな。じゃ、良い子のみんなは、こんなことにならないように気をつけてね。

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