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2017年5月 8日 (月)

さてさて

良い子の皆さん、連休も明けて、ますます天気が良くなりましたね。フランス大統領選挙も、自然な流れで落ち着きました。それについて言いたいこともあるけれど、それはまた後日。連休中は、軽井沢の物件の動向をリサーチしたり、榛名山信仰の霊場をリサーチしたり、北アルプスを眺めたり、木兎先生こと由良君美の文章など読んだりしておりましたが、それらについてはいつかまた。

今日は再び、和辻哲郎と昭和思想史に戻りたいのだが、その前に、アドルノの『否定弁証法』の終章から、いくつかの美しい訳文を引用しておこう。

引用1

自分にとって絶望が単に言葉の問題でない人ならば、何かが存在するよりはなにも存在しないほうがいいのではないか、という問いを発しうるかもしれない。・・・強制収容所にいる人間にとっては、・・・生まれてこなかった方がよかったのではないか、と言えるかもしれない。にもかかわらず、きらりと光る瞳をみただけで、あるいはご馳走をもらった犬がおとなしく尻尾を振っているのを見ただけで、かりに犬はそんなことをすぐに忘れてしまうにせよ、虚無の理想は雲散霧消する。考える人間に「あなたはニヒリストですか」と問われたら、・・たぶん正しくこう答えるだろう。「私がニヒリストである度合いはかなり少ない」。その理由は、苦しんでいるものに対する共感の度合いがあまりに低い冷酷さのゆえである。・・・ベケットは・・唯一ふさわしい仕方で反応している。つまり、現にある世界は強制収容所のようなものであると。彼は「無期死刑罰」という表現を用いている。唯一の希望として淡く光っているのは、もはやなにも存在しないということであるが、そういう希望も彼は退けるのだ。そこには首尾一貫性は欠如しているが、その欠如の裂目から、無の形象世界が「なにものか」として立ち現れている。この無の形象世界こそ彼の作品が捉えているものである。彼の作品の筋書きの延長にあるもの、つまり一見ストイックにこれまでと同じことを続けてやっていくという態度の中に声なき叫びとして響き渡っているのは、「こうでなく違った事態にならねばならない」というものだ。このニヒリズムは、無との同一化とは反対のものを含んでいる。こうした立場から見れば、被造物の世界は、グノーシス的に徹底的に悪の世界なのであり、その世界を否定することこそが、別の世界を、いまだ存在しないひとつの世界を可能とすることに他ならない。現にある世界があるがままである限り、和解や平和、安らぎのすべてのイメージは死のイメージに似たものとなる。安らぎに達した者が無とのあいだに持つほんのわずかの差異こそが、すなわち存在と無の境界標のあいだの無人地帯こそが、希望の避難所となろう。意識はこうした無人地帯を克服するのではなく、まさにこの地帯から、二者択一ではいかんともしがたいものを奪い取らねばならない。絞りつくされてますますでがらしになった肯定的思想なるものを、ニヒリズムに対抗してもちだすものたち。まさにそうした肯定的思想を通じて現存しているあらゆる卑劣さと、そして結局は破壊的な原理それ自体と秘かに結託している者たち、彼らこそニヒリストにほかならないのだ。


引用2 カントの認識モデルに触れて

絶対者を遮断するこの防御壁は、現実において人間を呪縛のうちに閉じ込めている労働の必要性と同じではないのか。そしてこの呪縛をカントは哲学として神聖化したのではないか、カントは誠実かつ残忍に、精神に対して内在への捕囚を宣告するが、それは自己保存への捕囚なのだ。

引用3 カントの英知界に触れて
有限な実在によって超越について語られることは超越の仮象であるが、・・それは必然的な仮象なのである。美学の対象である仮象の救済は比類なき形而上学的意義をもつ。

引用4 他者の仮象

・・世のなりゆきWeltlauf において他者das Andere の痕跡はすべて脆くあらゆる幸福は・・はなはだしく歪められている。だが、存在するものには、同一性の虚偽を暴露するそのさまざまな裂け目のうちに、再三再四反故にされてきたあの他者の約束がちりばめられている。あらゆる幸福は全体としての幸福の断片である。一方全体としての幸福は人間に身を委ねるのを拒むとともに人間もまたその享受を放棄しているのだ。
思惟する芸術家ニーチェは、思惟されたのではない芸術を理解していた。・・思想は存在するものの前では無であり、非真理である。・・・道化のたわごと、それは真理のある形なのだ。・・・その最高の姿であっても芸術は仮象である。しかし、芸術はその抗いがたい仮象のうちにあってもなお、仮象なきものからそれを受け取っているのだ。判断を放棄することによって芸術は「いっさいが無なのではない」と語っている。・・人間と事物に注いでいる光のうちで、超越の反照を宿していないものはひとつとしてない。・・仮象のうちには仮象なきものが約束されている。

引用5 ミクロロギー

・・肝心なものはますます小さくなりながら身を退けてゆき、ますます見分けがつかなくなる。そのことが形而上学がミクロロギ−に移行することの根拠である。ミクロロギーこそが形而上学の場所である。・・・形而上学は存在する物事が織りなす読み取り可能なコンステレーション(布置)Konstellationしてのみ考えられる。・・・形而上学は存在するもののエレメントを美化するのではなく、ひとつの配置Konfiguration へともたらす。エレメントが組み合わされて文字schrift となるような配置である。


形而上学とはひとつの願望であり、思考への欲求である。欲求は思考の中で消滅しなければならない。欲求は思考の中で自分が否定されることを求める。・・ミクロロギーの眼差しは、包摂する上位概念によって個別化されているものの殻を砕き、同一性を破砕する。
同一性とは個別的なものを「たんなる実例」にしている欺瞞であって、そのような欺瞞を破砕する思想こそ、崩壊の瞬間における形而上学の思考なのだ。


あーアドルノは面白かったね。
今日は引用だけで終わるつもりはなかった。けど、まあ前々前回に端折ったところを満たしたので、とりあえずは満足。じゃ、役にも立たない引用をよんでしまったかもしれない良い子のみんな、またね。

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