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2017年5月11日 (木)

岩波話続き

前回の議論は、けっこう面白いものになった。今日はその続きなのだが、僕の気持ちは、良い子の皆さんが期待するものとは違うと思う。僕の気持ちは、「軽井沢論」へと移っているのだ。

前回、和辻の掌編をとりあげ、岩波書店の冊子を意識して、岩波をヨイショする目的で書かれたことを取り上げつつも、和辻の無意識の視線が向かう先から新たな問題を提起し得たと思っている。

本格的な軽井沢論はこの夏以後としたいのだが、軽井沢論に関して、今日、第一に話題としたいのは、「軽井沢とは、内国植民地なのである」ということかな。

戦前の軽井沢の隆盛にともない、軽井沢から草津にいたる軽便鉄道が敷設された。この路線は、現在の軽井沢駅から始まり、三笠付近を通過したのち、山の勾配を克服するために大きく西を迂回して鶴溜を通り、ふたたび北上して小瀬温泉を通過する。そして群馬県境では、ふたたび東寄りのコースをとり、国境平を通過、西に下がって、大学村の西側、現在も記念の駅舎の残る北軽井沢駅にいたる。そのあと、吾妻川の川崖を西に降りて、一旦万座・鹿沢口駅付近に至り、ふたたび山を登って草津に至る、約55キロほどの山あり坂ありのコースを通るものである。この路線が引かれた背景を考えると、まず第一に、草津温泉が多くの旅行者にとって重要な目的地であったことがある。草津に至るのに現在の渋川から長野原に至る吾妻線が未開通であったので、横川から碓氷峠を越えて軽井沢に至り、そこから山越えして入るルートが意味があったのだろう。そしてもうひとつは、軽井沢から北軽井沢までの一帯が、すでに別荘地として、都会から訪れる多くの避暑客の目的地になっていたことが理由だったのだろう。もちろん、1940年前後には、草津付近の鉱山が産出する硫黄資源の運搬にも一役買ったことはまちがいない。また草軽軽便鉄道の開通と別荘地の発展とは軌を一にするものだった。(この路線に関する詳細はこちら

そんな草軽鉄道の歴史を踏まえてみると、ますます、前回の和辻の思い出話の妙味が見えてくる。というのは、和辻と岩波は、時間がかかる高原列車を利用するのではなく、全コースを車、たぶんタクシーみたいなもの、で移動していて、あのタイトル、「ああ、岩波文庫の岩波か」というのは、その運転手の言葉だからだ。
そんな新しい乗り物を駆使して、岩波茂雄の別荘修理の様子を見に行った二人、それが「成功の証」というのが、この掌編の隠れたテーマである。(岩波文庫がいかに普及したかを岩波茂雄自身が語っている。こちらを参照) その一方で、都会の成功者、とくに和辻にとって、目の前に広がる長野原の村落のようすは、「底知れぬ哀れっぽさ」としかいいいようのない、そのような視線の対象である、ということが僕の問題とするところなのである。そもそも、和辻の記述では、そこが「鎌原村」であるかどうかさえ、記されてはいない。そこを鎌原であるとしたのは、僕がそう書いただけなのだ。もとの文章を以下に引用する。

・・・翌日は天気がよかった。岩波君は自動車を呼んで、浅間高原から鬼の押出しの方へ案内してくれた。浅間山がこの熔岩をふき出した時に、おおぜい人死にがあった。その罹災者を弔うために建てられた寺が鬼の押出しの北のほうの村にある。その寺へも連れて行ってくれた。わたくしには鬼の押出しよりもこの農村と寺の光景の方がよほど印象深かった。そこには何か奇妙に人の心を捉えるものがあった。人生の底知れぬ「哀れっぽさ」というふうなものが感じられたのである。


これだけである。もしかしたら万が一、鎌原村のことではないかもしれない。史実としては鎌原観音堂は災害以前からある寺だからだ。溶岩流に飲み込まれたのちに、善光寺が関わって災害に伴う犠牲者の慰霊と供養が行われたらしいから。


敗戦直後、日本の農村や農民に対する東京の知識人の恨みがましい視線は、戦後民主化にかかわった知識人の読み物にしばしばと言えるくらいにあらわれる。彼らにとっては、農民は無教養で、「封建的な」日本の文化の担い手であり、日本社会の克服すべき旧慣陋習のたぐいをあらわしている。そこには学童疎開中のイジメの記憶や、戦後の食糧難時代に食料をねだっても気前よく分けてもらえなかったことへの憤りまでが混じっている。和辻にはそういうケチくさい視線はない。しかしながら昭和28年の時点で昭和11年を回想する和辻の記憶にあるのは、恨みのような感性にかかわる体験ですらない。村落の名前の固有名さえ、論じるに値しない。ましてやそこに住む人々の具体性など、なんの関心事にもならない、著者の情動としては、何か得体の知れない不定形な感情であり、あえて名付けるとすれば「哀れっぽさ」というしかない、そのような情動を喚起する対象として、ひとつの「光景」を作り上げているものにすぎない。


これを僕としては「コロニアルな視線」とでも名付けたいんだな。それをうまく説明するのは簡単ではないような気がするけど。
植民地化を進めるものと「原住民」の目に映るものが全く異なるというだけでなく、そもそも植民者にとっては、ネイティブが何を考えているか、どのような生活をしているかは、全く視界の外にある、というそんなことだ。軽井沢という場所は、そのような都会の上流階級にとっての居心地のいい空間として、開発されてきた。

これから後に「軽井沢」論を展開するとすれば、それは言ってみれば「コロニアリズム批判」みたいな視線からなされることに成らざるを得ない、ということがまず第一の論点だ。

それから第二には、和辻論も含めて、戦前ブルジョワジーの保守主義的議論がどのようにして崩壊して行ったかを、一方では社会変革的な社会論の形成崩壊を視野に入れながらきちんと見て行く必要がある、ということだろう。で、保守主義の限界みたいなものを見て行く時に、ここで僕が強調したように、いわば無意識的に繰り出されてくる、支配階級の「無関心な視線」に注目してみるというような、論点もアリかな、と言うことだ。その背後に僕としては、「従属階級論」(サバルタン研究)を見通している。

あー、ゴメンよ〜。今日は和辻氏をほめるつもりだったんだヨ。和辻が農村と寺の様子を「よほど印象深かった」と感じたのは、すごい鋭かったと思うんだよね、鎌原の観音堂の溶岩流に飲み込まれた人の人体の形が発見されたのは、学習院大の大石教授のグループが調査にはいった1980年前後のことなんだからね。それより半世紀も前に、それこそなんにもない寒村に「よほど印象深い」思いを抱いたのは、ほんとに和辻氏の第一級の直感だと思うから。いやホント、イヤミでもなんでもないヨ。そうした直感力こそ、氏の議論の力なんだから。
今日はこれくらいにしとくけど、良い子のみんな、あまりにも議論が難しいだろうか?
ゴメンよ。でも、難しいことを考えられるのが良い子のみんなの求めていることではないのかな?答えがすぐに出るようなことしか考えたくないというのなら、良い子とは言えないよね。じゃ、また。

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