« まあ、暑くなってきたね | トップページ | 高見順が表しているのは »

2017年5月30日 (火)

生命主義と唯物論

さて昨日は猪瀬直樹の面白すぎる軽井沢問題にかかわっていて、すっかり時間を費やしてしまった。週末には実はもう一冊目を通していて、それは鈴木貞美という人の『戦後思想は日本をよみそこねてきた』  平凡社新書501 2009年12月 、副題には「近現代思想再考」とある。実はこの鈴木貞美という研究者は『近代の超克 その戦前・戦中・戦後』という分厚い本を先ごろ出版している(作品社 2015年2月)。この本では「近代の超克」を広い観点から包括的に論じているので、いずれここで問題にしようと思っているのだが、その前に新書版で著者のいわんとするところを大づかみにみておこうと言う意図でこの新書を読んだわけである。この新書版でも著者は少ないスペースにさまざまな論点を入れようとして、かえって論点がぼやけてしまっているのだが、そのことはどうでもいい。錯綜した論点を通じて著者が何をねらっているのかがわかれば良いわけだ。

鈴木氏の新書から引き出される論点のひとつは、日本近代思想に流れる「生命主義」というテーマだね。鈴木氏は丸山真男や吉本隆明、加藤周一なんかをひきあいに出しながら、戦前・戦中思想の総括が的外れであることをまず述べる。これについて、特に丸山批判はまったくその通りだと思う。次いで第三章「近代の超克」思想の基盤、のところで、いくつかの論点を提出する。とくに注目したいのは、①産業構造の転換と新中間層の拡大による民衆生活の変貌 という事実  ② 生命主義 の百花繚乱 、おもにこの2点を「近代超克論」の基盤としていることで、これはいい指摘だと思う。とくに日露戦後の精神的空白から「煩悶青年」やら宗教への志向がでてくるなか、それに応えるものとして、出てきたさまざまな思想を、「生命主義」と簡単にまとめたところに鈴木の解釈の一番の特徴があると思う。たとえば西田哲学についてもいろいろあれこれと解釈はできると思うけど、それを「生命主義」としてとらえてみると結構面白い。
古くは北村透谷の「内部生命論」があり、高山樗牛の「美的生活を論ず」があり、和辻氏のニーチェ研究も、それに後の日本文化研究も、通底しているのは、言われてみれば、まさにそれだ!と思えてくる。この「宇宙は生命なり」的な見方は、大正教養主義のいろんな著作のもうひとつのテーマだったんだ!それがエマーソンからきてるのか、トルストイから来てるのか、それによって日本の論者の意見は異なっているようにみえるけど、今という時点から振り返ってみると、中身は意外と一緒だってことなんだね。この本では特に論じていないけど、日本の農村などにひろく受け入れられた「生命の實相」思想(宗教)も、その源はみな大正期の思想に源があると考えると、非常に合点が行くわけだ。

そう考えると、マルクス主義運動がそのような「生命主義」にうまく食い込めなかったというか、マルクス主義が「実践」を重視することによって「生命主義」を揚棄したというか。別の言い方をすると、マルクス主義の中にある19世紀的な「科学万能」みたいな、機械論的合理主義を残しているところと、「生命主義」とが齟齬を残したまま昭和の思想弾圧時代に突入していったというような構図も描けるのかな、と。まあそんなこんないろんアイデアが浮かんでくる。

ただ、それでも解決がつかないことはいくつかある。日本精神文化研究所、紀平正美の『日本精神』1930 から和辻の『続・日本精神史研究』1935までの5年間。この間の日本主義みたいなものをどう考えるのか。この間に満州事変1931、 国連脱退、5・15事件1932、とにわかに緊張が高まったことが背景か?この時は日本精神に注目はするけれど、「思想」としてはまだそこまでエキセントリックではなかった、ということか?

『出家とその弟子』1917の倉田百三が、狂った「日本主義文化宣言」をするのが1938末、杉本五郎の遺書『大義』が37年末に発行され、「軍神」となる。
1938年には徳富蘇峰が『皇道日本の世界化』で、反共産主義、反アングロサクソン戦争を唱える。同じ時、三木清は近衛文麿の「昭和研究会」に招かれ、「東亜協働体」パンフレット作成。

つくづく難しいなあと思うのは、こうして対中戦争に凸って行く時期のファナティックな非合理な呼び掛けの高まる時期から、「近代の超克」1942.6 までには若干の期間があるし、その間に日米開戦が挟まっている。西田幾多郎が「世界新秩序の原理」を用意したのは1943年の秋ころか。その間に多分たとえば 田辺元は『種の論理』なんかを書いているんだろう。民族というようなものを哲学的ロゴスの中に位置付けようとする冷静な論理であって、ファナティックな呼び掛けとはちょっと違うのかも。

ま、このへんの複雑なところをきちっと整理したいところだが、それは鈴木の『近代の超克、その戦前・戦中・戦後』2015 などをもとにして、後にみることにしよう。今日問題にしている新書での問題提起は、これらの流れを大正生命主義の展開上においてみることの大切さであったと思う。

鈴木は、この新書で、大正生命主義のマイナス面を抉ったものとして、高見順の『いやな感じ』1964をあげている。また高見順は続けて『北一輝』を書いている。これらもキチンと読まないとね。いずれにせよ生命主義の独善性や未熟さがきちんとわかれば、先にあげた戦中戦後の新宗教運動やこんにちの「日本会議」なんかにも通底している日本イデオロギーの本質がわかってくるものだと思う。その手のフラグメント化したゲスな思いつきが、そこらで「カラダにいい」食物を摂ることをすすめるニューエイジ的宗教と境をせっしながら、ちまたのあちこちでささやかれたりもしているのだから。

その一方、1940年代思想をきちんと整理して、救えるものは救いたい。横光利一や保田與重郎についても今日京都学派の哲学者が享受しているような地位、とまではいかなくてもなんらかのポジティブなものを救いたような気がしている。
もちろん、同時に前に取り上げた和辻の「トンデモ」な議論なんかも、その「トンデモ」ブリが、他の大作にも通底していることも、きちんと良い子達に伝えたい。

鈴木の本のタイトルにあるように、われわれの社会は昭和思想をきちんと捉えることができていないと、あらためて思うね。
じゃ、今日はここまでね。

« まあ、暑くなってきたね | トップページ | 高見順が表しているのは »

コメント

コメントを書く

コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1670621/70716407

この記事へのトラックバック一覧です: 生命主義と唯物論:

« まあ、暑くなってきたね | トップページ | 高見順が表しているのは »

2017年6月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30  

最近の記事から

  • ザッハリッヒに・・・
  • 黄組健児
  • 色男というジャンル

amazon

  • シューマッハー 『宴のあとの経済学』
  • シューマッハー 『スモール イズ ビューティフル』
  • 加藤周一『日本文学史序説・下』
  • 加藤周一『日本文学史序説・上』

amazon !

無料ブログはココログ

楽天