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2017年6月

2017年6月25日 (日)

ごめん、やっぱダメだった

というわけで、前回お約束の通り、片山杜秀先生の『未完のファシズム』副題は「持たざる国、日本の運命」、という新潮選書の本(2012.5)、読んだわ。前に取り上げた『日本の右翼思想』にでてくる、トンデモ思想ではなくて、すこしはマシな思想がでてくるのかとおもって期待して読んだけど、やっぱダメだった、ゴメン。
「速戦即決」、「戦陣訓」、「大東亜共栄圏」、どれもこれも思いつきのアイデアをみんなが合唱しているうちに「真理」みたいなかんじになっていって、結局自分で作った幻想に自分が飲み込まれ、自分の思想の説明不足をだれも責任をとらないまま、大変なことになってしまったのは、前回みた「右翼思想」と全く同じ構図。

片山先生は一生懸命こんな思想にも共感的に付き合ってくれるのだが、まあ、結局、感想としては、「何もかもダメじゃん」、て感じ。片山センセイは、第一次大戦の経済効果で、日本の体制がゆるんじゃったことをまず第一にあげているけど、それだけじゃすまない、どうしようもないダメさがあるよね。

関係ない話なんだけど、このあいだ、神田の田村書店の店頭100円売りで立て続けに洋書を何冊か買ったんだけど、そのうち、きったない一冊で、Guillaume Apollinaire : Les onze mille verges , 1970. L'Or du temps

っていうのがあった。これってあのアポリネール1880-1918が1907年に出版し、発売禁止になった正真正銘のトンデモ級のエロ小説を1970年になって復活させたという、いわくつきの出版物なんだ。アポリネールは(もらってはいないが)レジオンドヌール級の作家だけと、そういう世に知られた人が同時にこういうトンデモなエログロ作品も何個か書いているらしい。


日本で言えば明治末から大正という、同じような時期にいろんな日本思想が育ち始めたわけだけど、それが、ドンドン「日本化」して狭い世界に突入していくのに対して、ヨーロッパの同時代作家の経験している世界が、そういうものとまるっきり異なることにビックリするよね。ヨーロッパ的な知識世界の、世界のひろがりに驚くね。
経験も知識もないわけではないのに、世界観も社会の構想力も決定的に欠如して、その状態に自足してしまい、自説の十分な説明もできないまま「総力戦」とそれを支える「トンデモ」な「日本バンザイ」に突入していった日本社会の知識人のあり方があまりにみじめだわ。

何度も言っているように、ココロある知識人は、気付き始めていたんだよな。この島国の外の世界のことを。『旅愁』の横光利一も、その「違和感」をその作品でなんとか表現しようとしていたんだと思うんだよ。『浮雲』のインドシナ植民地の様子を記述した部分は、林芙美子の戦前・戦中の旅行経験が形になったもので、決して戦後の状況から後付けして考えたものではない、と僕はおもっている。
フツウの市民の立場からの、素直な感受性でもって外国体験の意味を解明しようとする姿勢がそこにあるんだと思う。そして、それは「思索」の新しい形の始まりだったと思うんだよね。残念なことに林も横光も早死にしてしまったけど。

実は先般から、苦労しつつ保田与重郎
を読んでいて、少なくとも、世に言われるほどひどくは無いぞ、その強烈な方法意識といい、一定の批判的思考を通じた世界との関わりといい、「けっこういけるんじゃね?」みたいに思っている。しかしその一方で、自分が保田与重郎みたいに「日本」を考えたいか?、と言われれば、No, thank you !
としか言えない。だって「世界はもっと広くて、人はもっと優しい」ことは分かっているから。


というわけで、改めて世界文芸の進度みたいなものを、古本屋の店頭で思い知らされたのよ。同じく澤口の店頭で、 Samuel Beckett WORSTWARD HO, 1983.John Calder, London を200円でゲット。これも言語表現というものを究極のところまで押していった、ある意味トンデモな作品だということが分かった。言語芸術はここまで持っていくことができる。こういうメッチャ「高い」世界が有るんだね(タメ息)。


片山先生の研究はほんとうにご苦労様と言いたいトコだけど、やっぱりどう転んでも、戦前昭和思想から何かの展望を拾い出すことはむずかしんだナア、と思い知らされる。その戦前昭和の思想について、ダメ出しが終わっているのならともかく、例えば「和辻哲郎」みたいに、ゾンビ化しつつ生き残ったものに対して、キチッと見ていかないと、またまた日本思想は「迷蒙」に転落していくのでは無いか、と心配になるわ。

良い子のみんな!「社会を構想する」とか、「文学作品を作る」ということは君たちが考えているよりもずーっと射程の長いものだ。世間には自称・他称、政治家とかがいて、これからの世界をどう作るか考えてくれているみたいに見える。それから、世の中にはまた学者・アーティストなどという人もたくさんいて、それぞれに仕事をして、何かを「作製」しているみたいに見える。そういう人たちが、何か自信を持って語っているのを見ると気後れしてしまうこともあると思う。でも今、目の前にあるものがそんなに「高い」ものではないことが分かったら、何も無理して低いものに自分を合わせようと努力する必要はないと思うよ。ツマラナイものに同調しようとして疲れるよりも、まずははるかに高いところにある「導きの星」みたいなものを目当てにして進むのがいいと思うよ。

というわけで、野上弥生子『迷路』の読書から始まった、昭和思想とはナンデアルカ、軽井沢的近代とはナンデアルカ、林芙美子と横光利一の「発見」、そういう一連のテーマ探求はなお「日暮れて道遠し」だ。
ツマラナイものは迂回して、そして高い星を目当てにしつつ、彷徨いながら進んでいくだけだ。



2017年6月16日 (金)

片山杜秀『近代日本の右翼思想』

片山杜秀の『近代日本の右翼思想』2007.9 講談社選書メチエ。

1945年8月15日まで、すごい勢いで突っ走った「トンデモ」系の日本思想、その全体像とまではいかないけど、今日ではあまり触れる人もいない学者について紹介した本。右翼思想の本質を追求したいという気持ちは伝わってくる。


『現代政治の思想と行動』所収の論文で、「日本ファシズム期には、ごく少数の異端者をのぞくすべての国民が右翼であった」みたいなことを丸山真男が言ってるんだってね。ってことは、昭和10年代は右翼思想しかない、ってこと? だとしたら、その時代の文学や思想を理解するためには、たしかに、この本のような日本の右翼思想を総合的にみていこうとする姿勢が必要だよね。同じ右翼の中での、違いみたいなものを見ていくということが大事になってくる。右翼、といって難しければ、もっと端的に「日本バンザイ」思想といえば いい。まあ、前に触れた和辻哲郎も「日本バンザイ」であることは間違いない。西田幾多郎も倉田百三も、みんなウヨク野郎だし、シンブンもザッシもみんな、「日本バンザイ」の記事ばっか・・・ということになる。そしたら、前に見たみたいに、横光利一が、『旅愁』で「日本バンザイ」思想を展開したところで、別にそんなの当時の普通のことじゃん!、ってなってくるよね。そんなに知識人のみんながみんなクレージーだったのかな?でもさ、前に紹介した野上弥生子の『迷路』の書きだしのところは昭和11年に発表されたわけで、そこには社会を冷静に見る目があって、「トンデモ」思想はかけらも入っていないわけだよね。
トンデモ思想は、所詮は「右傾化」の流れに便乗したお粗末な思想だったんだと思うんだ。どうころんでもお粗末なものはお粗末なだけ。
そういう中で、1940年台に相応しい新たな経験や発想が芽生えていたはずだ、というのが僕のこのブログのさいしょからの問いかけなんだよね。

それを見るには例えば、横光利一の『上海』と『旅愁』の小説を構成する視点の差異とか、そんなところを推していきたい訳だ。保田與重郎のわけのわけわからん評論だって、同時代のセンシティブな若者にそれが影響を与えたことを、三井甲之の「手のひら」健康法みたいなトンデモ養生術と一緒にするわけにはいかないと思うわけ。安岡正篤みたいな「政界」の裏で直接的な人間関係を築くやり方を、著述家や作家の仕事と同じように見ることはできないと思うわけ。

どこをどう推し、どこをどう批判するのか、その辺をはっきりさせないと、鈴木貞美みたいに、焦点がバラバラになっちゃうんじゃないか。

この間、吉本隆明の仕事に言及して、ちょろっと書いたように、僕にとって「切実な」あるいは「悲劇」であるような、そういうものを見ていかないと、それこそ、前々回指摘したように高見順の混乱した「戦前観」を「事実」と誤認してしまうことにもなりかねない。

今日の最初に書いたように、片山杜秀は、この本で「右翼思想」の本質にせまろうとしていて、そこはすごくいい。右翼思想の特徴の第1は、「歴史的理性の否認」ということね。それは「今中いまなか」という言葉で一番よく表現できる。日本の右翼思想には「自由の進歩の歴史」というような(ヘーゲル流の)歴史観は、ない。日本の歴史には、つねに天皇の統治する理想の社会があるだけで、それは神武天皇の昔から、いま現在に至るまで、まったっく同一だ、ということだ。だから、そこから外れるような悪辣な人物がでたりして、歴史の正しい筋道を外れることがあったり、という意味ではいろいろ変化はあっても、正統な社会のあり方は、全く変化がない。したがって、つまるところ歴史とは明白な出来事、事実の羅列であるか、多少外した言い方をすれば「歴史とは思い出」なのだ。
アリストテレスによれば、「運動」とは、普通は始まりと結果があるものをいう。その一方「永久運動」とは往復であるか円環であるかである。したがって論理的にいっても「日本は永遠」であるというのならそれは往復か円環であるのだから、歴史とはそこに生起する事実の羅列であるか、別の見方をすれば思い出みたいなもんだといっても別におかしくはないのだ。
右翼思想の第2の特徴は「身体論」ね。といっても、心身二元論とかといった考えはかけらもない。あくまで大切なのは具体的な身体ね。健康法に留意して丹田に気をためて、良い姿勢をとって、「様になる」ようにしていく。親子関係も身体のつながりだし、神も具体的な身体を持ってることが肝心だ、というわけだ。
こんなものが「思想」と呼べるかどうかも疑わしいのだが、とにかくこれらが「右翼思想」の特徴であることはよくわかった。といっても、繰り返すけど、「ファシズム期にはほとんどすべての日本人は右翼だった」、という前提でこれらの話が展開しているわけなんだが、まあ、僕として日本人のがそこまで馬鹿だったとはおもえないんだな。

おそらく片山センセイは次の書物『未完のファシズム』において、この手のトンデモ系の「ウヨク」思想とはことなる、ヨリ「ゲンジツテキ」なファシストの国家構想を論じていると思うので、そっちも見てからにしようね。

今日はココまで。

2017年6月14日 (水)

林芙美子、イイネ!

こないだ成瀬巳喜男の『浮雲』見た話書いたんだけど、ついでに原作も読んで見た。成瀬監督の映画が原作に忠実なのにおどろいた。
そして、林芙美子の描いた世界が、時代の制約とかとは関係なしに、何か普遍的なものを表現していると思って感心した。

「私達って行く処がないみたいね」

主人公ゆき子のセリフは、敗戦後の日本の状況とかというよりも、地上における人間の普遍的な情緒ではなかろうか。この寄る辺のなさといったものは、すべての登場人物に共通している。

作品全体を貫いているのは、言ってみれば「存在論的な寂しさ」というようなものである。「世界−内−存在」としての人間のありようをSorge という気分で表現した哲学者がいたが、『浮雲』を読んでいると、それを「寂しさ」と言い換えて見たらどうか、という気持ちになってくる。

「寂しい」とは何かの欠如態とも言える。主人公がことさらにそれを感じるというのも、「欠如」の反対、つまり「満たされた」状態が意識されるからである。この物語では、昭和18年の秋、当時の仏印に農林省の出先機関のタイピストとして働いていた時の記憶が常にベースにあるわけだ。彼らが日本の敗戦によって奪われたのは、軍占領下で自由に振る舞える、「外地」の空間である。それは隅々にまで張り巡らされた「擬−共同体的」秩序によってがんじがらめにされた「内地」とはまさに反対の自由なくうかんであり、彼らにとっての「行動的−生」の舞台であった。そこでは人間関係は自立した個の関係であり、恋愛感情がプラスの価値として機能する舞台でもあった。もともとだらしない男である富岡という農林研究所の職員も、仕事の上で無能なわけではなく、ただひたすらに女性との関係においてだらしないのである。

日本国家の「南進」によって彼らが一時的に得ていた自由空間を失い、浦島太郎のように、スカンピンな日本に戻って来た時に、個としての人間存在の根源的な状況が、露呈することになる、というのがこの物語の構造を作っている。

それにしても林芙美子が優れていると思うのは、前に彼女のフランス旅行記に触れた時に感じたように、彼女の観察眼が、非常に素直であって、「日本がどうした」とか「西欧の文化がどうした」とかといった、余計な観念を全く交えていないことだ。あるのは常にその人の性格だとかの洞察だけなのだ。
この小説の中で言えば、ベトナムの街ダラットの出先機関の様子について、
その職場で働く、女中のニウへ向ける視線や現地雇用のタイピスト、マリーへの視線も、とても自然なものだ。女中のニウは、富岡と関係するのだが、富岡のニウに対する感情の記述も、そのむき出しの様態においてなんのくったくもない。

林芙美子にかこつけてコロニアリズムの視線がどうした、ということを論じたいわけではない。この小説がフォーカスしていくのは人間の存在論的な条件である、ということが大事なのであって、それが露呈するための条件として、コロニアルな情景と敗戦後の内地が、極めて効果的というか説得力のある構成を可能にしている、ということを言いたいのである。しかしながら一方では、こうした条件といったものも1940年代の日本人が新たに得た視点でもある、ということも重要だと思う。つまりなんの変哲も無い一般市民が、日本の本土を離れて仕事をし、その中で内地では得られない経験をし、そこから何かの理念を掴んだということ。そしてその条件が失われた時に、その理念はまぼろしだったと言えるのか?ということだ。そのことが小説の中で、再三主人公たちの口から漏れてくる。簡単に言っちゃえばそれは「ダラットの青春の日々」とでもいったもの、もっと短く言えば「青春」という理念である。だれにでも若い日があるわけで、「青春」とは「特権的なもの」であって、「青春」とは「自由なもの」であるはずだ、ということだ。主人公たちはこの自由空間を二重に享受した。コロニアルな状況の自由と自らの年齢としての青春期の自由という、二重性である。

何かの瞬間があまりにも輝いていたために、人はその時の代金のツケを一生に渡って払い続けるというようなことがある。
その瞬間をもたらした条件のひとつはは間違いなく、この小説では、「ダラット」の環境なのだ。

引用したいのだが、とても長くなるので気がひける。第21節、文庫版では151ページから154ページまでのところでゆき子がダラットでの生活を回想する場面では、ゆき子の口を通じて珍しく、日本軍の南進政策への批判めいた口吻が出てくる。そしてそこでは富岡の口からも同じような発言がされる。ここはきわめて重要な場面であると思う。どうしようもなくだらしない富岡という人間であるが、はっきりと世間をみているのだ、もしこのどうしようもない男女をつないでいる何かキズナがあるとしたら、まちがいなくこの共通体験がもたらした「自由」という理念のためなのだ。
でも林芙美子はそういうことを声高には言わない。

「みんな過ぎた思い出になってしまった。そして、あの美しい土地にごみごみと散らばっていた日本人は、みんな日本に追い返されてしまったのだ」

「美しい土地」とそこでの「美しい経験」は二度ともどらない。この切実さというものを知っているか知らないか、知っていても忘れてしまえるのかどうか、そこにいわば人間の全倫理がかかっていることを林芙美子はとてもよく知っている。


第36節で、すくなくとも林芙美子は小説として言いたいことは全て書き尽くしたのだと思う。
文庫版では259ページの最後の行から、その節の終わりまで。
ここも引用するに足る、美しい回想だ。その一部だけ引く。


・・・その風景の中にレースのような淡さで仏蘭西人はひそかにのんびりと暮らしていたし、安南人は、夜になると、坂の街を、ボンソアと呼びあっていたものだ。湖水、教会堂、清艶な緋寒桜、爆竹の音、むせかえるような高原の匂い・・・・もう一度、あの場所が恋しいのだ。こんな貧しい生き方は息苦しい。・・・贅沢さは美しいものだということも知った。

そして、次のような認識も。

・・のびのびとして、歴史の流れにゆっくる腰をすえている民族の力強さが、ゆき子には根深いものだと思えた。何も知らないとは言え、教養のない貧しい民族ほど戦争好きなものはないように考えられる。この地球の上に、あのような楽園がちゃんとある事を日本人の誰もが知らないのであろう・・・
他人を見る眼のとげとげしさに訓練させられている日本人の生活の暗さが、ランビャンの楽園にいる時は、なんとも不思議な人種に見えて、ゆき子は、生涯をランビャンに暮らすつもりで、日本の遠さを、心のうちではよその民族を見るような思いでもいた。



こうした記述から、何か日本人論的なものを引き出すとか、コロニアルな特権者の眼差しとしてこれを退けるとか、それも十分可能だが、そういうことは作品の本質を離れるだろう。

はじめにも書いたように、1940年代の特殊な歴史的条件を通じて、林芙美子は、きわめて普遍的な、しかも文学だけがそこに到達できる「人間の条件」を示したのだと思っている。

おろかな人間は、何かにつけて「びっくり」するものだ。早川トオル、今回も本当にびっくりした。「いや〜林芙美子、いいね!」
もちろん成瀬巳喜男の映画も凄かったけど、やっぱり原作は、ちゃんと読むべしだったな。

「切実さ」というものへの切実な思いがないものはブンガクとは言えない。林芙美子はブンガクだな、間違いない!

2017年6月10日 (土)

高見順があらわしているもの 訂正版

高見順の『いやな感じ』1963、今日大学の図書館ですこし読み直してみると、このあいだ区立図書館で斜め読みしたのと、だいぶ印象がかわってきた。結論からいくと、「こりゃ、ダメだ」。

なにがダメかというと、主人公の人間が、まったく描けていない。べらんめえでスラングを使い、生命力のつっぱしるままに行動する無軌道な人間を描こうというアイデアはともかく、それがどうしても歴史的実在の人間になってこない。前回、そういう点に気づかなかったのは、部分部分の描写しか見ていなかったからだ。特に出のところ、主人公が遊郭がよいし、淋病になって医者にかかるところあたりはいいし、それから最後の殺人のところも緻密な描写になっていて、ほんとうにびっくりする。ただ問題は、それらをつないで、生きている人間の像が描けていない。だから、この小説は、いってみればただの戦前・戦中の政治に題材を借りた「娯楽小説」以上のものにはなっていない。

そもそも1963年の時点で、この時代を描くからには、戦前戦中の時代の痛みが描けていなければいけないし、行動する人間といえども、常に迷い、決断する際には何か考えて、そのぎりぎりのところで選択をするのだ。だが、高見の小説の中では、ただのロボットみたいな人間があれこれ言っているだけで、それ以上にはならない。そもそも高見は「政治」について何かを書こうとするのなら、当然、1963年の政治のアクチュアリティが前提になっているはずなのだが、それがない。

例えば大江健三郎が「セブンティーン」で「右翼」の行動を戯画化して取り出した時も、大江は常に「危険」とともにそれを書いていたのだと思う。(大江はその後も一貫して右派の憎悪の対象となり続ける)。高見はいかなる観点で戦前戦中を描こうとしたのか、その政治的判断がない。だから、それらしいことを書いても、人物の政治的行動の意味が解明できていなくて、ただのエネルギーに溢れて自滅する馬鹿野郎の行動しか書けていない。

ようするに高見には1930年代に人々が何を問題にして、直接行動にでたのかが、「わからない」のだ。

今回、高見を参照したのは、鈴木貞美が、高見の描いた主人公が「大正生命主義の帰結」だというから読んだわけだ。しかし、もし鈴木のいう「大正生命主義」が高見の描くばかばかしいものだとするなら、そこには見るべきものも論ずべきものも何もない、ということになる。

高見はプロのエンターテイナーであるが、肝心の思想の理解力という点では問題外である。これでは山田盛太郎も大杉栄も浮かばれない。北一輝の理解についていうなら、渡辺京二の『北一輝』と天地ほどの差がある。これじゃ、北一輝も青年将校もまるきり浮かばれないではないか。

というわけで、鈴木貞美の文章理解力にも大方の見当がついたので、もうこれは相手にしないことにする。

吉本隆明が『悲劇の解読』 1979. 筑摩書房 の中で、「悲劇を介してだけ、『作品』は普遍的に作品に到達する」、と述べて、批評がもつ悲劇性は「作品が悲劇であるときだけ、かろうじて釣り合う」みたいなことを言っているが、何であれ文学を論じようとするなら、その程度の覚悟は持ちたいものだ。

高見の書いた世界は「えげつない」点においては何かの真実に迫っていることは間違いないが、それは戦中思想でもないし、大正思想でもない、まったく別のものである。あえて言えば高度経済成長期にさしかかって、「えげつなく」金儲けに邁進しだした日本人の自画像がその適切な対応物ということになるだろう。

そのようなものをもって、大正から昭和の思想をあらわしているなどというのは、とんだ時代錯誤である。あー、なんだか書いてるうちにめちゃくちゃ腹が立ってきた。こんなもので戦前・戦中をかたられちゃあ、たまんないよー。いいかげんにしろ!

2017年6月 7日 (水)

オレのサードプレイス?

昨日オルデンバーグの『サードプレイス』読んだ。
副題には、「コミュニティの核になるとびきり居心地のよい場所」、とある。(忠平美幸訳みすゞ、2013)
著者のオルデンバーグは1932年うまれとあるから、けっこう年配の人だな。   
THE GREAT GOOD PLACE :  Cafes, Coffee Shops, Bookstores, Bars, Hair Salons and Other Hangouts at the Heart of a Community   /  Mass.1989.

この著者が嘆いているアメリカの現状ってすごいよくわかるわ。モータリゼーションがその大きな背景だけど、それだけでなくて都市の肥大化なんかも関係あると思う。

本の内容は説明しないよ。簡単にいっておくと、サードプレイス、ってのは家庭でも職場でもない場所。インフォーマルな公共生活の行われる場所で、活動拠点Forcal point であったり、中核的環境 Core setting であるような場所。そこに集まってくる人は対等な関係(職場の立場とか社会的地位とかと関係なくて)、そこでは むだ話(会話)が主な活動。コンビニエントで時に常連の人もいたり。あんまり目立たなくて地味な場所。そういう場所って必要だよね?
で、昔から人類はそういう場所を大事にしてきたんだな。都市の文化はそういうな所から生まれてきた。コミュニティってのは元来そういうものを持ってる場所なんだな。ヨーロッパの街に行けばおっさんたちが街の中心の広場に近いカフェやビストロでなんとなく遊んだりタバコ吸ったりしてる。トルコだったら紅茶飲んでる。中国いくと屋外の木陰でお茶飲みながら麻雀やってたりとか。
このごろのメガロシティではそういう場所はどんどんなくなりつつある。

で、この本はアメリカでそういう場所が減ってきたことを問題にしてるんだ。僕としては、著者にすごく共感できる。ただ、僕がもっと重大だと思うことはある。どういうことか、というと、サードプレイスの消失は、単に物理的な空間の喪失ということではなくて、人間の心性というか、モラルの変化と関係がある、ということだ。

この本のタイトルが示している「インフォーマル」かつ「公共的」な次元そのものを、現代の薄っぺらい人間は「理解」することができないと考えられる。あれか、これかの一次元的な思考しか許さない心性のもとでは、「公共領域」はフォーマルであって、一方「私的領域」はインフォーマルである以上にプライヴェートな秘匿空間である、という風にしか捉えられないというのが、今日の趨勢ではないかと思っている。僕自身はそういう考え方も嫌いだし、そのような社会は望ましい社会ではない、と思っているけど、現実はますますそういう風な方向にむいているように思う。

僕としては、固定した場所としてのサードプレイスというよりも、「ココロの中に」サードプレイスを育てたい。
職場の会話が「仕事の話」か「家庭の話」しかない職場はなんだか寂しい。「ココロのサードプレイス」がある人たちの職場なら、かならずや空き時間の会話の質も変わってくるだろう。そういう職場は創造性があるんじゃないかと思う。僕の勤めていた場所も30年くらい前はそんな風だったんじゃないかと思う。
見方を変えよう。ココロにサードプレイスを持つ人が集まる職場には、「魅力のある人間がいる」。仕事の能力に還元できない、別の能力を互いに尊重する。『釣りバカ日誌』の「ハマちゃん」だ。もっともハマちゃんと偉い人は「釣り船」という立派なサードプレイスを共有しているのだが。
まあ、「地位のあるひと」やら「学歴がよくて頭のいい人」とかは、いろいろいるみたいだが、「魅力のある人」はいなくなった、というのが大方の「エリート」の集まる職場の状況なのだ、とも言いたくなる。

社会が短期的な効率とか経済合理性みたいなものをことさらに取り上げていく現代では、余白の時間や空間は無駄で切り捨てるべきものとしか映らないだろう。アメリカの都市生活のますます貧しくなっていく様子は、その他の社会の未来を映し出しているとも言える。
ま、昔話の好きなオレみたいなジジイには、実によく通じる議論だな。
ちなみに、昨日は大田区立田園調布図書館で他にも面白い本を読んだのだが、それについてはまた後日。

2017年6月 5日 (月)

近代的人間の条件

鈴木貞美は高見順の『いやな感じ』をもって、大正生命主義の帰結であるというのだが、どうもピンとこない。たしかに主人公は内面の充実を求めて北海道に行ったり中国に行ったりしてめちゃくちゃな行動にでるのだが、まあ僕としてはその行動力にびっくりするわけだよ。で、そういう「日本」という枠にとらわれない、とらわれない枠組みで小説を書くという、新しい小説の方法みたいなものが、前から問題にしている1940年代あたりから出てきたように思うのね。もっともそんなこと言わなくても、すでに明治の頃から、森鷗外が留学中の体験から『舞姫』を構想したり、漱石だって『倫敦塔』とか、初期の短編はイギリスでの経験をベースにしてるんだろう、とか。永井荷風の、『あめりか物語』も『ふらんす物語』もみな自分の海外体験をもとに書いてるじゃないか、と、ご意見もあろうかとおもうし、実際その通りなんだね。ただ、ヨーロッパに留学した文学者の目に映ったものと、昭和の文学者が日本統治下のアジアの国々で見たものとの間には、なんかだいぶ違いがあるんじゃないか、と思うわけ。それは行き先がアジアかヨーロッパか、という問題ではなくて、それぞれの国や社会、そこに生きる人を捉える「視線」そのものが違うんじゃないか、って思えるわけ。
『舞姫』の鷗外はその手の視線をたくみに隠しているんだけど、漱石にとってのロンドンとかは、格闘すべき何かになっているように思えるわけ。荷風にとっては、幻としてのヨーロッパを下町の風俗の中に「幻視」しようとする視線が固定されているわけね。
ようするに、海外体験というものが作家の「自我」意識にとって何らかの抵抗値を示すものであるわけよ。しかもそれがむき出しの自我の問題というよりも、「日本」と「西洋」とかといった別のレヴェルの問題として意識されているというところがあるんだと思うんだ。

それに対して、高見順の小説の主人公にとっての中国は、まさに自らの内なる生命の躍動の「舞台」となっているだけで、漱石にとってのイギリスのような自我のぶつかる対象物ではないんだよね。場所が異なるだけで、小説の登場人物にとっての課題は、それとは別にあるってこと。

前回のブログに Vita activa って言葉を書いたけど、これはハナ・アレントが『人間の条件』で、展開した考え方ね。ドイツ語版では同じ議論がそのものずばりVita activa というタイトルで出版されている。人間が自己の「仕事」を通じて他者といきいきとかかわる政治的環境における「生」のありようみたいなものだ。古代ギリシャにおいてはポリス共同体、近代においては建国期アメリカの民主制にみられるような共和国的共同体の中で「言論」を通じて形成される生き生きとした活動力に満ちた人生のありかたをいう。

言いたかったことは、昭和の文学者にとっては、明治末以降「日本」の政治領域が中国やアジアの広い範囲に広がった結果、主人公の日常体験にアジアの状況が入ってこざるを得ない状況になったってこと。昭和の文人の生活環境がナショナルなものを飛び越えてしまっているという状況がでてきた、ってことが重要だ。意識にとって「背景」の位置を占めるようになったのが中国とかアジアとかいう、「場所」である。その場所は、あくまで「背景」として意識がそれを排除するように見えて、実は登場人物の意識や小説の成り立ちそのそのものを規定してしまっている、という関係が見て取れる。

高見順の主人公が最後のところで蛮行に及ぶのは、主観的には日本人を殺害した時と同様に「生命力が過剰になった」からであっても、客観的には相手が「中国人」であり、「便衣兵であるかもしれない」からであることは読者にも共有されている。

そんなことに関連して、最初にイメージしたのが、林芙美子の『浮雲』だったわけ。と言っても小説は読んでなくて、成瀬巳喜男の映画で観ただけなんだけど。その作品で、林芙美子が描く主人公の女性は、戦中に現在のヴェトナムにあたる地域で仕事している富岡というだらしない男と知り合い、戦後は一旦関東で暮らすが、最後は男の後を追って屋久島に渡り、そこで病死する。『浮雲』の登場人物にとっては、どの場所で暮らそうと、そのこと自体にはなんの意味もなく、こだわっているのはあくまで一人の男と女のかんけいのありかただけなのである。ただ、登場人物の浮雲のような生活感は、国外での暮らし、戦後の都市といった、共同体から引き離されて孤立している環境そのものがうみだしている。

ようするに人間の生活の舞台が、堅固な「政治共同体」を離れてしまっているという、客観的条件こそが『浮雲』の世界なのだ。

そのことは「戦後的」価値とはなんの関係もない。焼け跡の東京は同じような「共同体の解体」とむき出しのエゴイズムの世界であるのだが、それをもって「戦後的」という必要はない。

むしろ昭和戦中期から、経済社会の変貌により、私たちの社会の編成は、バラバラの個人の集まりへと変化し始めていたのだろう、ということだ。

文学はいち早くその状況を捉え、作品化したのだと思う。問題は、「日本」といった枠組みを離れた外国体験をどのように、どこまで持ち得たのかということになる。林芙美子は個人の資質として、ナショナルなものや因襲的な共同体の枠組みにとらわれない考え方かたが強く、そのことが作品の命につながっている。
今日のブログを書きながら、結局思ったことは次のようなこと。

「近代の超克」という文脈は、「日本」がアジアの模範になるとかいったことと結びついて、結局は日本の侵略イデオロギーとなったことの理由は、もうはっきりしてきたってことかな。それは、すでに存在しなくなった、あるいは存在しなくなりつつある過去の「共同体」イメージをことさらに取り上げ、その価値を誇大に評価する「ロマンティシズム」そのものだからだ、ということだ。まあこれは繰り返しだね。

最初っからそういう「共同体」イメージをもたない林芙美子は、陸軍の従軍作家として「戦争協力」活動に従事しながらも、(多分)そこに足をとられることなく、戦中から戦後という難しい時期をのびのびと生きられたのだと思う。


今日はこれといった強い論点がないままにダラダラと書いてしまった。では良い子のみんな、またね。

2017年6月 1日 (木)

高見順が表しているのは

鈴木貞美氏が大正生命主義の帰結として、高見順の『いやな感じ』を挙げていたので、さっそく昨日読んでみた。といっても、午後に歯医者に行くことになっていたので、三田の区立図書館で全集版を1時間ほど読んだにすぎないのだが、先が知りたくなってとうとう最後まで斜め読みをしてしまった。ちゃんと読んだんじゃないから、ちゃんとは言えないが、読後感としては「これはエグい!」というもの。スラングだらけの会話文のスピード感もさることながら、娼家やら慰安所の様子や、そこに集まる人々、拷問、殺人、死体のころがっている現場感もなかなかのもの。フィリピン戦の出来事を書いた大岡昇平の『野火』でも十分にびっくりした私だが、いまやその『野火』がどれほどか、品がいい主人公の目でかたられていたかを痛感させられた。こちらははるかに即物的というか直接的で、言ってみれば、「感傷みたいなものがつけいるスキがない」。

で、この物語を貫いているおおきな発想は、ほぼ同じ頃に書かれた短編小説、『北一輝(大魔王観音)』1963.9 別冊文藝春秋、によく表れている。これは小説の形をとった人物伝みたいなものだ。大杉栄の「社会葬」に際してその遺骨を北一輝の弟子が公然と奪った事件などを挙げて、北という人物、あるいはこの話を語る当人(それは高見であるか、『いやな感じ』の主人公の加柴(野中)であるか、そうした面々の簡単には政治的な色分けのできない政治行動のありかたを描いている。
それは、
「・・・相容れない右翼と左翼を両股にかける、ヌエのような存在ということとも違ふのだ。それについて語りたいところだが、《 階級のほかに、民族がある。社会と同時に国家を考えたい》とNが言った、この一言を、ここに紹介するだけで話のつづきを急いでかたらねばならぬ」

というわけである。

この辺のつながりについて、全集第6巻の解説で本多秋五が、あれこれと追求しているが、たいした中身はない。高見順が1963年の時点でこの小説を書いたのは、(この小説の主人公が明かすように)現在の三田や白金の裏手、一の橋から二の橋・・つらなるよどんだ川に沿った住宅地が欧州大戦のあと小さな工場地帯として発展し、そこで汗水垂らして仕事にはげむ工場主の家に生まれ、(農村共同体からは完全に切り離された都市の住民として)、昭和という時代を問題意識を持って生きた人の「活動的生」Vita activa のありようを、ありえた限り、可能な限りの地理的広がりと人的つながりの中に描き出そうとした作品だ、ということだ。
鈴木貞美に指摘されて読み始めたけど、これが彼のいうように「大正的生命主義」の帰結だ、というのはいかにも適切ではないと感じられる。たしかに主人公は「生のエネルギー」を肯定し、中国戦線で慰安所(ピー屋)にならぶ兵隊たちの中にも、

「・・・俺はひんしゅくどころか、むしろそこに、ルツボのようにたぎる、あらあらしい生命の姿、なまなましい生命の躍動に感激していた・・」

のだし、話の最後、中国の便衣兵とおぼしき農民を斬首して処刑することを申し出た時も、次のようにいう。

「・・・中国人に似ていると言われた俺が、中国人を虐殺しようとしている。俺にとって何の怨みもない中国人の生命をむざんに絶とうとしている。

生命の躍動に感激し、生命に何か感謝したい気持ちだったあの俺が、これはどうしたことか。いや、矛盾ではなく、あれの延長にほかならないのだ」

さらに続けて、こうもいう。

「根っからのアナーキストだと玉塚から言はれた俺は、大杉栄が言った、我らの反逆は生の拡充なのだといふことばを改めて思ひ出させられた。生の拡充、生命の燃焼を俺は欲した。俺にとってこの恥づべき愚行ーー愚行なんて
言葉ですまされるものではないが、これは正に生命の燃焼なのだ」

しかしながら一方では、「平凡な生活者」の生を在り方を想起した上で、こうも語っている。

「どっこい、平凡な生活の方が、ほんとはもっとむごたらしいのだ!」

(引用はすべて全集第6巻 310頁)

高見順がこの長編で述べようとしたことの多くはここに集約されている。

僕がここに見出すのは鈴木貞美が言ううな「大正生命主義の帰結」ではない。短編小説「北一輝」が主題としている「政治的人間」、行動する人間が置かれた社会的条件の複雑性、政治的な目的と手段、その結果の一筋縄ではいかない関係を客観的に示すことが目的なんだと思う。それはこの作品が書かれた1960年代始めの政治的季節の中で展開された単純な政治的行動の色分けのありかたに対して、その前の世代を知る者からするアンチテーゼなんだと思う。

うーん長くなったが、高見順という作家について考えることができたのはHATOにとっては幸せだったな。今の世の中は単純化した議論ばっかりだけど、高見順の小説が示しているように、政治とは人間の情念を介しているのだから、そのようなものを介して語ることができる「情念の政治学」にとっては、反対物の一致はけっしておかしなことではない。サヨクがウヨクに、アナルコ・サンディカリズムがボルシェヴィズムに変わったって、なんの不思議もない。そういうことをきちんと知るためにも、文芸はそれを示すことができるのだから、文芸を読むことはとても価値があるのだと、つくづく思う。



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