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2017年6月16日 (金)

片山杜秀『近代日本の右翼思想』

片山杜秀の『近代日本の右翼思想』2007.9 講談社選書メチエ。

1945年8月15日まで、すごい勢いで突っ走った「トンデモ」系の日本思想、その全体像とまではいかないけど、今日ではあまり触れる人もいない学者について紹介した本。右翼思想の本質を追求したいという気持ちは伝わってくる。


『現代政治の思想と行動』所収の論文で、「日本ファシズム期には、ごく少数の異端者をのぞくすべての国民が右翼であった」みたいなことを丸山真男が言ってるんだってね。ってことは、昭和10年代は右翼思想しかない、ってこと? だとしたら、その時代の文学や思想を理解するためには、たしかに、この本のような日本の右翼思想を総合的にみていこうとする姿勢が必要だよね。同じ右翼の中での、違いみたいなものを見ていくということが大事になってくる。右翼、といって難しければ、もっと端的に「日本バンザイ」思想といえば いい。まあ、前に触れた和辻哲郎も「日本バンザイ」であることは間違いない。西田幾多郎も倉田百三も、みんなウヨク野郎だし、シンブンもザッシもみんな、「日本バンザイ」の記事ばっか・・・ということになる。そしたら、前に見たみたいに、横光利一が、『旅愁』で「日本バンザイ」思想を展開したところで、別にそんなの当時の普通のことじゃん!、ってなってくるよね。そんなに知識人のみんながみんなクレージーだったのかな?でもさ、前に紹介した野上弥生子の『迷路』の書きだしのところは昭和11年に発表されたわけで、そこには社会を冷静に見る目があって、「トンデモ」思想はかけらも入っていないわけだよね。
トンデモ思想は、所詮は「右傾化」の流れに便乗したお粗末な思想だったんだと思うんだ。どうころんでもお粗末なものはお粗末なだけ。
そういう中で、1940年台に相応しい新たな経験や発想が芽生えていたはずだ、というのが僕のこのブログのさいしょからの問いかけなんだよね。

それを見るには例えば、横光利一の『上海』と『旅愁』の小説を構成する視点の差異とか、そんなところを推していきたい訳だ。保田與重郎のわけのわけわからん評論だって、同時代のセンシティブな若者にそれが影響を与えたことを、三井甲之の「手のひら」健康法みたいなトンデモ養生術と一緒にするわけにはいかないと思うわけ。安岡正篤みたいな「政界」の裏で直接的な人間関係を築くやり方を、著述家や作家の仕事と同じように見ることはできないと思うわけ。

どこをどう推し、どこをどう批判するのか、その辺をはっきりさせないと、鈴木貞美みたいに、焦点がバラバラになっちゃうんじゃないか。

この間、吉本隆明の仕事に言及して、ちょろっと書いたように、僕にとって「切実な」あるいは「悲劇」であるような、そういうものを見ていかないと、それこそ、前々回指摘したように高見順の混乱した「戦前観」を「事実」と誤認してしまうことにもなりかねない。

今日の最初に書いたように、片山杜秀は、この本で「右翼思想」の本質にせまろうとしていて、そこはすごくいい。右翼思想の特徴の第1は、「歴史的理性の否認」ということね。それは「今中いまなか」という言葉で一番よく表現できる。日本の右翼思想には「自由の進歩の歴史」というような(ヘーゲル流の)歴史観は、ない。日本の歴史には、つねに天皇の統治する理想の社会があるだけで、それは神武天皇の昔から、いま現在に至るまで、まったっく同一だ、ということだ。だから、そこから外れるような悪辣な人物がでたりして、歴史の正しい筋道を外れることがあったり、という意味ではいろいろ変化はあっても、正統な社会のあり方は、全く変化がない。したがって、つまるところ歴史とは明白な出来事、事実の羅列であるか、多少外した言い方をすれば「歴史とは思い出」なのだ。
アリストテレスによれば、「運動」とは、普通は始まりと結果があるものをいう。その一方「永久運動」とは往復であるか円環であるかである。したがって論理的にいっても「日本は永遠」であるというのならそれは往復か円環であるのだから、歴史とはそこに生起する事実の羅列であるか、別の見方をすれば思い出みたいなもんだといっても別におかしくはないのだ。
右翼思想の第2の特徴は「身体論」ね。といっても、心身二元論とかといった考えはかけらもない。あくまで大切なのは具体的な身体ね。健康法に留意して丹田に気をためて、良い姿勢をとって、「様になる」ようにしていく。親子関係も身体のつながりだし、神も具体的な身体を持ってることが肝心だ、というわけだ。
こんなものが「思想」と呼べるかどうかも疑わしいのだが、とにかくこれらが「右翼思想」の特徴であることはよくわかった。といっても、繰り返すけど、「ファシズム期にはほとんどすべての日本人は右翼だった」、という前提でこれらの話が展開しているわけなんだが、まあ、僕として日本人のがそこまで馬鹿だったとはおもえないんだな。

おそらく片山センセイは次の書物『未完のファシズム』において、この手のトンデモ系の「ウヨク」思想とはことなる、ヨリ「ゲンジツテキ」なファシストの国家構想を論じていると思うので、そっちも見てからにしようね。

今日はココまで。

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