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2017年6月 1日 (木)

高見順が表しているのは

鈴木貞美氏が大正生命主義の帰結として、高見順の『いやな感じ』を挙げていたので、さっそく昨日読んでみた。といっても、午後に歯医者に行くことになっていたので、三田の区立図書館で全集版を1時間ほど読んだにすぎないのだが、先が知りたくなってとうとう最後まで斜め読みをしてしまった。ちゃんと読んだんじゃないから、ちゃんとは言えないが、読後感としては「これはエグい!」というもの。スラングだらけの会話文のスピード感もさることながら、娼家やら慰安所の様子や、そこに集まる人々、拷問、殺人、死体のころがっている現場感もなかなかのもの。フィリピン戦の出来事を書いた大岡昇平の『野火』でも十分にびっくりした私だが、いまやその『野火』がどれほどか、品がいい主人公の目でかたられていたかを痛感させられた。こちらははるかに即物的というか直接的で、言ってみれば、「感傷みたいなものがつけいるスキがない」。

で、この物語を貫いているおおきな発想は、ほぼ同じ頃に書かれた短編小説、『北一輝(大魔王観音)』1963.9 別冊文藝春秋、によく表れている。これは小説の形をとった人物伝みたいなものだ。大杉栄の「社会葬」に際してその遺骨を北一輝の弟子が公然と奪った事件などを挙げて、北という人物、あるいはこの話を語る当人(それは高見であるか、『いやな感じ』の主人公の加柴(野中)であるか、そうした面々の簡単には政治的な色分けのできない政治行動のありかたを描いている。
それは、
「・・・相容れない右翼と左翼を両股にかける、ヌエのような存在ということとも違ふのだ。それについて語りたいところだが、《 階級のほかに、民族がある。社会と同時に国家を考えたい》とNが言った、この一言を、ここに紹介するだけで話のつづきを急いでかたらねばならぬ」

というわけである。

この辺のつながりについて、全集第6巻の解説で本多秋五が、あれこれと追求しているが、たいした中身はない。高見順が1963年の時点でこの小説を書いたのは、(この小説の主人公が明かすように)現在の三田や白金の裏手、一の橋から二の橋・・つらなるよどんだ川に沿った住宅地が欧州大戦のあと小さな工場地帯として発展し、そこで汗水垂らして仕事にはげむ工場主の家に生まれ、(農村共同体からは完全に切り離された都市の住民として)、昭和という時代を問題意識を持って生きた人の「活動的生」Vita activa のありようを、ありえた限り、可能な限りの地理的広がりと人的つながりの中に描き出そうとした作品だ、ということだ。
鈴木貞美に指摘されて読み始めたけど、これが彼のいうように「大正的生命主義」の帰結だ、というのはいかにも適切ではないと感じられる。たしかに主人公は「生のエネルギー」を肯定し、中国戦線で慰安所(ピー屋)にならぶ兵隊たちの中にも、

「・・・俺はひんしゅくどころか、むしろそこに、ルツボのようにたぎる、あらあらしい生命の姿、なまなましい生命の躍動に感激していた・・」

のだし、話の最後、中国の便衣兵とおぼしき農民を斬首して処刑することを申し出た時も、次のようにいう。

「・・・中国人に似ていると言われた俺が、中国人を虐殺しようとしている。俺にとって何の怨みもない中国人の生命をむざんに絶とうとしている。

生命の躍動に感激し、生命に何か感謝したい気持ちだったあの俺が、これはどうしたことか。いや、矛盾ではなく、あれの延長にほかならないのだ」

さらに続けて、こうもいう。

「根っからのアナーキストだと玉塚から言はれた俺は、大杉栄が言った、我らの反逆は生の拡充なのだといふことばを改めて思ひ出させられた。生の拡充、生命の燃焼を俺は欲した。俺にとってこの恥づべき愚行ーー愚行なんて
言葉ですまされるものではないが、これは正に生命の燃焼なのだ」

しかしながら一方では、「平凡な生活者」の生を在り方を想起した上で、こうも語っている。

「どっこい、平凡な生活の方が、ほんとはもっとむごたらしいのだ!」

(引用はすべて全集第6巻 310頁)

高見順がこの長編で述べようとしたことの多くはここに集約されている。

僕がここに見出すのは鈴木貞美が言ううな「大正生命主義の帰結」ではない。短編小説「北一輝」が主題としている「政治的人間」、行動する人間が置かれた社会的条件の複雑性、政治的な目的と手段、その結果の一筋縄ではいかない関係を客観的に示すことが目的なんだと思う。それはこの作品が書かれた1960年代始めの政治的季節の中で展開された単純な政治的行動の色分けのありかたに対して、その前の世代を知る者からするアンチテーゼなんだと思う。

うーん長くなったが、高見順という作家について考えることができたのはHATOにとっては幸せだったな。今の世の中は単純化した議論ばっかりだけど、高見順の小説が示しているように、政治とは人間の情念を介しているのだから、そのようなものを介して語ることができる「情念の政治学」にとっては、反対物の一致はけっしておかしなことではない。サヨクがウヨクに、アナルコ・サンディカリズムがボルシェヴィズムに変わったって、なんの不思議もない。そういうことをきちんと知るためにも、文芸はそれを示すことができるのだから、文芸を読むことはとても価値があるのだと、つくづく思う。



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