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2017年6月 5日 (月)

近代的人間の条件

鈴木貞美は高見順の『いやな感じ』をもって、大正生命主義の帰結であるというのだが、どうもピンとこない。たしかに主人公は内面の充実を求めて北海道に行ったり中国に行ったりしてめちゃくちゃな行動にでるのだが、まあ僕としてはその行動力にびっくりするわけだよ。で、そういう「日本」という枠にとらわれない、とらわれない枠組みで小説を書くという、新しい小説の方法みたいなものが、前から問題にしている1940年代あたりから出てきたように思うのね。もっともそんなこと言わなくても、すでに明治の頃から、森鷗外が留学中の体験から『舞姫』を構想したり、漱石だって『倫敦塔』とか、初期の短編はイギリスでの経験をベースにしてるんだろう、とか。永井荷風の、『あめりか物語』も『ふらんす物語』もみな自分の海外体験をもとに書いてるじゃないか、と、ご意見もあろうかとおもうし、実際その通りなんだね。ただ、ヨーロッパに留学した文学者の目に映ったものと、昭和の文学者が日本統治下のアジアの国々で見たものとの間には、なんかだいぶ違いがあるんじゃないか、と思うわけ。それは行き先がアジアかヨーロッパか、という問題ではなくて、それぞれの国や社会、そこに生きる人を捉える「視線」そのものが違うんじゃないか、って思えるわけ。
『舞姫』の鷗外はその手の視線をたくみに隠しているんだけど、漱石にとってのロンドンとかは、格闘すべき何かになっているように思えるわけ。荷風にとっては、幻としてのヨーロッパを下町の風俗の中に「幻視」しようとする視線が固定されているわけね。
ようするに、海外体験というものが作家の「自我」意識にとって何らかの抵抗値を示すものであるわけよ。しかもそれがむき出しの自我の問題というよりも、「日本」と「西洋」とかといった別のレヴェルの問題として意識されているというところがあるんだと思うんだ。

それに対して、高見順の小説の主人公にとっての中国は、まさに自らの内なる生命の躍動の「舞台」となっているだけで、漱石にとってのイギリスのような自我のぶつかる対象物ではないんだよね。場所が異なるだけで、小説の登場人物にとっての課題は、それとは別にあるってこと。

前回のブログに Vita activa って言葉を書いたけど、これはハナ・アレントが『人間の条件』で、展開した考え方ね。ドイツ語版では同じ議論がそのものずばりVita activa というタイトルで出版されている。人間が自己の「仕事」を通じて他者といきいきとかかわる政治的環境における「生」のありようみたいなものだ。古代ギリシャにおいてはポリス共同体、近代においては建国期アメリカの民主制にみられるような共和国的共同体の中で「言論」を通じて形成される生き生きとした活動力に満ちた人生のありかたをいう。

言いたかったことは、昭和の文学者にとっては、明治末以降「日本」の政治領域が中国やアジアの広い範囲に広がった結果、主人公の日常体験にアジアの状況が入ってこざるを得ない状況になったってこと。昭和の文人の生活環境がナショナルなものを飛び越えてしまっているという状況がでてきた、ってことが重要だ。意識にとって「背景」の位置を占めるようになったのが中国とかアジアとかいう、「場所」である。その場所は、あくまで「背景」として意識がそれを排除するように見えて、実は登場人物の意識や小説の成り立ちそのそのものを規定してしまっている、という関係が見て取れる。

高見順の主人公が最後のところで蛮行に及ぶのは、主観的には日本人を殺害した時と同様に「生命力が過剰になった」からであっても、客観的には相手が「中国人」であり、「便衣兵であるかもしれない」からであることは読者にも共有されている。

そんなことに関連して、最初にイメージしたのが、林芙美子の『浮雲』だったわけ。と言っても小説は読んでなくて、成瀬巳喜男の映画で観ただけなんだけど。その作品で、林芙美子が描く主人公の女性は、戦中に現在のヴェトナムにあたる地域で仕事している富岡というだらしない男と知り合い、戦後は一旦関東で暮らすが、最後は男の後を追って屋久島に渡り、そこで病死する。『浮雲』の登場人物にとっては、どの場所で暮らそうと、そのこと自体にはなんの意味もなく、こだわっているのはあくまで一人の男と女のかんけいのありかただけなのである。ただ、登場人物の浮雲のような生活感は、国外での暮らし、戦後の都市といった、共同体から引き離されて孤立している環境そのものがうみだしている。

ようするに人間の生活の舞台が、堅固な「政治共同体」を離れてしまっているという、客観的条件こそが『浮雲』の世界なのだ。

そのことは「戦後的」価値とはなんの関係もない。焼け跡の東京は同じような「共同体の解体」とむき出しのエゴイズムの世界であるのだが、それをもって「戦後的」という必要はない。

むしろ昭和戦中期から、経済社会の変貌により、私たちの社会の編成は、バラバラの個人の集まりへと変化し始めていたのだろう、ということだ。

文学はいち早くその状況を捉え、作品化したのだと思う。問題は、「日本」といった枠組みを離れた外国体験をどのように、どこまで持ち得たのかということになる。林芙美子は個人の資質として、ナショナルなものや因襲的な共同体の枠組みにとらわれない考え方かたが強く、そのことが作品の命につながっている。
今日のブログを書きながら、結局思ったことは次のようなこと。

「近代の超克」という文脈は、「日本」がアジアの模範になるとかいったことと結びついて、結局は日本の侵略イデオロギーとなったことの理由は、もうはっきりしてきたってことかな。それは、すでに存在しなくなった、あるいは存在しなくなりつつある過去の「共同体」イメージをことさらに取り上げ、その価値を誇大に評価する「ロマンティシズム」そのものだからだ、ということだ。まあこれは繰り返しだね。

最初っからそういう「共同体」イメージをもたない林芙美子は、陸軍の従軍作家として「戦争協力」活動に従事しながらも、(多分)そこに足をとられることなく、戦中から戦後という難しい時期をのびのびと生きられたのだと思う。


今日はこれといった強い論点がないままにダラダラと書いてしまった。では良い子のみんな、またね。

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